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2021/08/20

 一旦ブログをお休みします。就職して働き始めた頃くらいにまた再開したいと思います。時間と意欲が私にあれば……

2021/08/03

 自分の欠点は真っ直ぐに認めなければいけない。もうそれらを見て見ぬふりして愚にもつかないお喋りを続けているわけにはいかない。第一に、僕は怠惰である。真面目に勉強したり働いたりすることが苦手なのであり、そのことに負い目を感じているので、その言い訳を考えなくてはいけない羽目になるのである。第二に、臆病である。いつも他人からどう思われるかを気にしてはびくびくしているような気がする。あるいは、そもそも他人を避けていることすらある。第三に、心が狭い。人を選ばず誰とでも気軽に挨拶したり口を利いたりすればいいものを、誰と仲良くして誰と仲良くしないか、仲良くするとしたらどのくらい仲良くするか、などなど自分の都合のことばかり考えているので、あまり他人と親しくなれないのである。

 この三つの欠点で、僕という人間の何もかもを説明することができる。性格も、置かれている状況も、これまで僕がしてきたこともしてこなかったことも、何もかもこの三つだけで説明できるのである。言い訳も、自己正当化も、しなければいけないことを放ったらかした状態でうだうだ頭の中でお喋りすることも、何もかもやめなければいけない。やるべきことがほかにたくさんあるではないか? 勉強するなり働くなりまともに人と関わるといったことである。もう少しくらい勤勉にならなければ、まともな生活を送らなければいけない、そして何より、もっともっと心を広くしていなければいけない! 気前がよくて陽気で豪快なくらいに(だれかが無理に一キロ半行かせようとするなら、一しょに三キロ行ってやれである)。もう一言だって喋らない!

2021/08/01

ひた走る

ひた走るトロイカ
喜びも悲しみもすべて
どっかと積んで全速力
闇夜を駆ける馬と馬と馬
しゃんしゃん鈴の音高く鳴る
些細な感傷はまとめて
風に吹き飛ばされるぞ
残ったもので生きてゆけ
心を鉄にしろガラスの花瓶
武士は食わねど高楊枝
死んで私は花になろう
夜空に高く見てる星
ふっとまぶたを閉じる時
冷たく澄んだ空気の中を
心はかっと燃えるよ赤く
ここには何もかもがある
そうだ一切がある

2021/07/29

誰もが子供である

 心をすっかり明るくして、正しい見方で世界を眺めるのであれば、私たちはどんな他人の心の中にも、かわいい無垢な子供の姿を見出すことができるものである。誰もが子供みたいにはしゃいでいたり、あっけらかんとしていたり、あるいはちょっとだけ怯えて内向的であったり、それでいて何か期待するような眼差しを向けていたりするものである。私たちがそのことに気づかないのは、私たち自身が未熟であるとか、余裕がないとかのせいなのである。この私自身、他人の心の機微に注意を払わず、自分の意識ばかりに気を取られているせいで、どれほどたくさんの可能性をどぶに捨ててしまったことだろう! 私たちは正しい心の準備さえあれば誰とでも意気投合できるのである。もちろんこれは綺麗事には違いないけれど、それでもどこか単なる綺麗事として片付けることのできない、一片の真理が含まれているように私は思う。

鳴らせ明るく

ああうん
この憂鬱にもけりを
つけなきゃあね
心をくるくるっと
ひっくり返して
きれいに蝶結びする
鏡は見ちゃおれん
でもマスクあるから
気にするな
太陽あるうち外に出る

心のずっと奥の方
忘れられた小さな箱
遠い遠い記憶の庭園
ほのかな灯火
ふっと見えなくなる

底の底から
どっかと揺るがせ
巨大な陽気な豪快な
鳴らせ明るく
光らせ そうそれでいい
結局ここにはまだ何か
あるのだからな
なんとか生きていたい
生きて生きていたい
なんという真実の声
だろう!
それはもう強引で
うるさいくらい

2021/07/26

その心臓

自分の足で立つこと
やめてしまえ
その心臓
誰かにくれてしまえ
通りすがりの誰かに
丸ごとくれてしまえ
孤立の果ての
魔物にくれてしまうよか
まし

からからと
笑い吹き飛ばす男たち
ロシアの馬が通る
大地の力は
身体を燃やして

 勇敢に積極的に人間関係の中へ入っていくことは、ときにとても難しい。人間関係とは網の目みたいに複雑なものである。その中では何が起こるか予想がつかない、起こったことの責任を自分が取れるかも分からない、そして何より心に傷を負うかもしれないのが怖い……などということを考えているので、あまり大胆な行動が取れないのである。誰かを傷つけてしまったとき、僕はその責任を取れるのだろうか? また、自分が傷つくことを恐れている。それはどんなに心を奮い立たせようとしても、いざというときには役に立たず、僕はこんなにも臆病な人間なのか! と驚愕するほどである。あれこれ逡巡するだけで行動できなくなっているのである。

 それというのもすべて、起こったことをそれが何であれ受け入れ、巻き込まれたなら進んで迎え入れ、関わる人たちみんなを心から歓迎するだけの「全体的な愛」が僕には欠けているからである。だいたい傷つくことがなんだろう、恥をかくこと、滑稽になることがなんだろう? 愛することによってしか愛することを学ぶことはできないと言うのに、それを学ばないまま大人になっていいものだろうか。ああそれにしても、ポール・マッカートニーの曲はなんと愛に満ち溢れていることか。「レット・イット・ビー」とか「ヘイ・ジュード」とか、なんと暖かくて力強くてシンプルなメッセージが含まれていることか。自分の未熟さがよく分かるのである。

2021/07/25

 ビートルズの「ビコーズ」という曲は、どこか空恐ろしいけど、本当に純粋に美しい曲。ビートルズには、どうしてこんな曲もあるんだろう? といつも不思議に思う。これを聴いたときには、まとまったイメージを抱くことができない。嬉しいのか悲しいのか、安らかなのか恐ろしいのか、暖かいのか冷たいのか、明るいのか暗いのかよく分からない。ああ本当にどうしてこんな曲があるんだろう……といつも思う。どうしてこんな曲があるんだろう? 「ビコーズ」をビートルズの代表曲に挙げることはできないかもしれない、しかし、もしかしたらこれは一番の傑作かもしれないぞと思わせる何かがある。

わたしは心に決めた

わたしは心に決めた
もう決して自分の心の内
もっともナイーブで
センチメンタルで
大切な
わたしの肉体の一部分を
切り取って誰かに
見せたりはしない
お悩み相談
身の上話 くそくらえよ
ハードボイルドになれ
家族にも友人にも
わたしはいっさい何一つ
打ち明けないぞと
そのせいで
一人くたばるんなら
それで結構
ああでもどうして
こうなったんだろう?
どこで踏み外したのか
かなしくない
さびしくないけどでも
いつか何もかもわたしが
間違っていたと
それで一からすべて
やり直さなきゃいけなくなる
そういう大きな一撃が
わたしを見舞って
その時こそ本当の幸せ
純粋な喜びが
わたしの体を包むのか
そして自由になる……
ああその時まで
耐えていられるだろうか
でもとにかくいま
わたしは心に決めた
お悩み相談
身の上話 くそくらえよ
ハードボイルドになれ
わたしは心に決めたのだ

2021/07/23

その日その時

無数の小さな水の流れ
あっちこっち散々な方向
丁寧に辿っていけば
すべてが一つの
大きな川へと繋がっている

その日その時
すべてがあるべき場所に
パズルが完成するみたい
きっとそう成りますよう

時々自信がなくなって
ささやいている声
お前の心の中を覗いてみろ
ほらこんなに疑わしい

ああいつか何もかも
それで良かったのだと
言える日が来るでしょうか
永遠という時を経て
平行線の二本が交わる場所
もの人みなが然りと叫ぶ

パーティーの準備
料理を運ぶのにも手が
ぶるぶる震えるわたしでも
お役に立てることが
あるでしょうか

暗闇の中を

白い蛍光灯の部屋
眩しくって つぶった目は
心の奥へと向けられる
私は暗闇になる
うごめく魂
ふらふら彷徨って
もう苦しくって
息もできない気がする
そこで私は見る
大きな舞台の影に
一人 放り出される赤ん坊の影
影の影を眺めている
たゆたう雲と雨と風
太陽はいつやって来る
おおらかな海の青
桃色の春のにおいはどこ
ここは暗闇
私は影を見ているだけの影ふと
灯台がぐるぐる回っている
のが見えた
あと少しこっちにそう
ほんの少しだけ時間を
ください
すうっと灯火
一筋の光 ささやかに
ぱあっと目が覚める
白い蛍光灯の部屋
なんということ
そうね外はとても明るい
私は生き延びたのだ

2021/07/22

汚れた傷を洗い流して
見上げた空に手を伸ばしてみた
綺麗になりたくて
もがけばもがくほど
この手も足も
獣臭くて嫌になるんだ
いつもそうだよ

風も嵐も夢も涙も金も痛みも恋も明日も
恥も誇りも聖者も影も愛も轍もたゆたう世でも
あの子をなぐさめるひとかけらの光
(AL「ハートの破り方」)

2021/07/21

悲しみの道化

ぼくの頭の上にはな
大きなアンテナが
張ってあってな
耳に心地よい美しい台詞
読んで胸打つ力強い言葉
拾ってきては
空っぽの思想に履かせ
その時々の目障りな
やつら目がけて発射するのさ
神の名もみだりに唱えるよ!
自己矛盾もお手のもの
神秘は逆説の中にあり
嘘をつくこと
知ったかぶること
思い出の改ざん
どれも癖になっちまってさ
何が本当かも分からなんや
本当の人格も
心も 私もなくなって
もう止められないんだ
口が勝手に喋るんだな あはは
子供の時から自分を守るため
そうしてたんだものな
それがいまじゃ弱い者の
意志を食らって生きる道
いまさら引き返せないんだな
つらいなあ

2021/07/20

心を開いて!

すっかり心を
開いてしまうべきだ
心の中の複雑さ煩雑さ混乱
すべてをひっくるめ
おのれのあらゆる人格を
整理してすべて説明
恋も愛も憎しみも
正直さはいつも最善の道
しかしそれは
不可能だということもまた
よおく分かっている
雑多な感情
よくもまあ雨嵐
同時に降ってくるものだ!
この本を開いたら最後
判決が待っている
よしよろしあしわろし
相手の微細な反応
一つ一つ思い浮かべる
どうしておれが
下手に出てさあ
心を開示せにゃならん?
こいつにその
値打がある?
この関係どうする
捨てちまうか
ああまたそうすんのか
お前はよお
どこからか拳銃
取り出して
自分の頭に かち ずどん!

2021/07/17

自己正当化の誘惑(日ごろの思考)

 ものを考えるさいの姿勢には、二種類ある。一つは、公平にすべてを考慮に入れて吟味する、真理(という言葉は大仰な響きだけれど)に仕える姿勢、もう一つは、自分を正当化するため、「自分にまつわるものは正しいが、それ以外のものはどこか間違っている」と言ってのける、自己に仕える姿勢である。たとえば哲学者が、哲学を擁護したり称賛したりするのはある意味当たり前で、たとえそれがもっともらしい理屈によって導かれているとしても、どこか不誠実な部分があるのではないかという疑念は残る。それは先の二つ目の姿勢、自己正当化の欲求を満たそうとする姿勢が含まれているのではないか、という疑念である(かの偉大な哲学者プラトンが導き出した結論を考えてもみよ!)。もっとも、哲学者よりも言葉を用いるのが下手くそな私たちが、そんな疑念を差し挟んだところで、簡単に言いくるめられてしまうのがおちだけれど。

 また当然、これは哲学者に限った話ではなくて、すべての人間がものを考えるさいに頭の中で起こってしまうことでもある。どんなに意識して取り除こうとしても、どうしたって避けられない、それほどこの「自己正当化の誘惑」は大きい。私自身とて、口が裂けても「私は自分を正当化することなく、正しい道のりでものを考えている」などと言うことはできない。もし誰かに「あなたがそんなことを言うのは、あなた自身のため、あなた自身の立場を大きくしたいからにすぎない」などと言われたら、私は「一番の泣きどころを突いてきましたね。図星ですよ! 私としては十分気をつけているのですが、それでも足りないようです。私の頭の中でじっさい何が進行しているか、それは私自身にも分かりません」としか答えられないだろう(もっとも、私はこう見えて、本当に気をつけているのである。できる限りの努力はしているつもりだ……)。

2021/07/15

心の中での暴言/善悪の知恵の実

 たとえ心の中でさえ、死ねとか殺すとか言っていいわけがない。それも子供がその時の勢いで言ってしまうとかならまだしも、いい大人が? 私は思うのだけど、大人は子供とはまったく違う生き物であり、何が違うのかというと、大人は善悪を考える能力があるのである。それゆえ、どんなに大人が「私は子供だ」と言い張っても、大人は不純である(ここら辺の説明は難しいのだけど)。だから子供には許されることも、大人には許されない。大人は善悪を素通りして好き勝手やることはできない。とはいえ、心の中でさえ死ねとか殺すとか言ってはいけないと私が思うのは、もちろん私の主観的な判断である。だからそんな綺麗事を言うと、「ああこいつとは分かり合えないな」と思う人が出てきそうだが、しかし……では一体、彼らは誰となら分かり合えると思っているのだろう? まさか心の中で死ねとか殺すとか言う人たち同士で、分かり合うつもりではあるまい? それとも、そんなことが可能だとでも思っているのだろうか。いいや分かり合うことは求めていないと主張するにせよ、では心の中で死ねとか殺すとか言う人たちが、互いを受け入れることができるとでも? あるいは、たった一人きりで生きて死んでいくつもりなのか。 ……などなど、好き勝手書き散らかしたところで、白状しなければならないことがある。よくよく反省すればこの私自身、心の中で死ねとか殺すとか一切言ってません、と断言することはできないのである。つまりそれくらい性格の悪い瞬間が私にはあるのである。ああ!

 体の明りはあなたの目である。目が澄んでいる間は、体全体も明るいが、悪いとなると、体も暗い。だから、あなたの内の光(である目、すなわち心)が暗くならぬように注意せよ。もし体全体が明るくてすこしも暗い部分がなければ、明りがその輝きであなたを照らしている時のように、すべてが明るいであろう。
(『ルカ福音書』11・34-36)

 私はこの箇所がとても気に入っています。肉体的な目と対応して、心は精神的な目であるとされます(福音書に登場する「目の見えない人」はみな、精神的な意味においてだと解釈されるのが一般的)。内にある心が明るければ、おのずから体全体は照らされ、その光は外にまで溢れてくる。ゆえに、態度ふるまい言葉よりも先ず、心にこそ気を配っていなくてはならない。「隠れているものであらわにならぬものはなく、隠されているもので(人に)知られず、また現われないものもないからである」(『ルカ』8・17)とも、きれいに対応しています。

2021/07/14

 ここ数ヶ月が一番楽しい気持ちで文章を書いている気がする。自分の文章を読んでうっとりするみたいな感覚には、どことなく間違ったものが含まれていると私は思うが、とはいえ、漠然と心の中にある書きたいものを心の中にある美的基準を満たしつつ記述することができたときには、やはり嬉しい気持ちになる。誰かに読んでもらいたいと思うことはある。でもどうして読んでもらいたいのか。褒めてもらうため、注目されるために読んでもらいたいとしたらいかがわしい(何も書いていないようなものである)。読んでもらうことで読んだ人に得るものがあるかもしれない、などと言い立てるとしたら自惚れもはなはだしい(じっさいそういうことがあるならそんなに嬉しいことはないけれど!)。もっとも、こういったことをいちいち指摘していくとしたら、最終的に「喋んな、お前は修道院にでも入ってろ!」ということになりそうである。

ある男の心境

あはは 
してみるとお前の心の中にも
おれの居場所はないらしいな
なぜって
このおれの心が
おれ自身の居場所だけで
精一杯だからだ
誰のことも受け入れないよ
まあいい
それでもお互い干渉せずとも
やっていけるさ
地球は別にそこまで狭くないし
いざとなりゃ
公園にだって暮らせるさ
刑務所にだってね
その時こそ本当に
神様がその気になって
おれの心の扉を叩くかも
しれないし
ハントの絵みたいにね
あはは
だけどいまは分からんよ
それに分かりたくもないのだ
行ける所まで行くだけさ
いっそ地獄までな

2021/07/13

神の手の中にあるのなら
その時々にできることは
宇宙の中で良いことを決意するくらい
(小沢健二「流動体について」)

 なんと力強い逆説だろう!

2021/07/12

心のどこかにある〈理想〉/「ギュゲスの指輪」問題

 私たちは各々心のどこかに、「私は(あるいは人間は)かくあるべきだ」という一つの理想を持っている。もっとも、その理想を言語化することは難しい。というか、たいていの場合、そんなことはできないのだけど。それでも、そういった〈理想〉は心のどこかにあって、私たちは各々それを信じているのである。たとえば、私たちが「人を殺してはいけない」「友人を裏切ってはいけない」などと思うとき、それらは〈理想〉から導かれる信念である。あるいは「人を殺すべきだ」「殺してもいい」というのもまた、その人の〈理想〉に適った信念である。この〈理想〉という考え方は、まあ理にかなっているのではないかと私は思う。

 プラトンの『国家』に「ギュゲスの指輪」という有名な思考実験がある。もし不正をしても絶対にばれない能力(指輪)を持っているとしたら、どんなに正しい人であっても、欲望を優先してしまい、悪いことだと分かっていながらも不正することをいとわない、それが人間の本性である、と。これは「ギュゲスの指輪」という思考実験を通して、グラウコン(プラトンの兄)が主張したことである。この主張は、倫理のもっとも痛いところを突いている。正しいことは何であるか、善とは何であるか、そんなことが分かったところで役には立たぬ、外的な強制力がなければどうせ人間は欲望のままに行動してしまうのだから。これに反論することは容易ではない。

 しかし、人間はじっさい、内的な強制力も持っているのではないだろうか。少なくとも私の実感ではそう思われる。たとえば、私たちは人を殺してしまったとき、きっとひどく憂鬱な気分になるだろう。これは「逮捕されたらどうしよう」とか「人から非難されたくない」という恐怖(ある種の自己保存の本能)だけによるのではない。そこには罪悪感というのも確かにあって、これは悪事のばれる恐れが一切ないときにも生じるものである。私はさきに、人間は各々心のどこかに〈理想〉を持っている、と述べた。あるいはこれを〈正義〉とか〈善〉とか、はたまた良心だとか表現してもいいけれど、とにかく私たちは、心のどこかに内的な強制力をちゃんと持っているのである。人間はその〈理想〉から遠ざかっているとき、たとえ欲望のままに行動したとしても、決して幸福ではあり得ないし、そんなことを心の底では望んでもいないのである。

2021/07/11

 あの出来事があって以来、少年の内部では何もかもが複雑になってしまった。目に見える景色は以前とまったく変わりないし、世界は依然としてその歩みを進めているのだが。まわりの人々にしても同じことで、申し合わせたかのように何事もなかった顔をしている。もちろん、みんな出来事があったことは覚えているのだが、その意味を知らないか、あるいは知らないふりをしているのである。
 しかし、まさにそのことが、かえって少年を混乱させたのである。この心の動揺、はげしい衝撃を共有することのできる大人がいないという孤独感、そしていつまでもその出来事の呪縛に囚われている自分は、もしかしたらどこか不潔で間違った存在なのではないかという疑念、これらのものが彼をひどく苦しめた。少年はまだ本質的には子供であったので、物事を客観的に見ることができなかった。そこで彼は、まわりの人々ではなく自分にこそ問題があるのだと思い込み、自分自身を責めたのである。これらはすべて大人たちの知らない場所、少年の心の内奥で起こったことである。

重力と身体

水の中は
泳いでいる心は
重力を感じない
四肢にまとわりつき
体全体を包み込んでは
するする通り過ぎゆく流動体
宇宙空間に漂うよりも
掴みどころがあって
心地よい疲労感

地上を走るは
変な形をした生き物が
二本足だけで支えている
足裏には熱が
関節には力が
太腿はいまにも破裂しそう
どれだけ走れど
平面的
なるほど地上に
縛られている

2021/07/08

青ざめた馬

ああそう
まったくよく分からんな
どかんどかん
火を吹く蛇がぐるぐる
そこらに渦巻いて
おれの知ったことではない
えさまいて種まいて知らん顔
そんなふうな言われ方
図星かなそうでもない
よく分からんな

あおいあおい
青ざめた馬が走る
こっちにくる
幻想的なのは白い馬
青い森
その風景きらきら
光るすすき
静かで
落ち着いていて
凍りついて
何もかも透明なのは
まったく綺麗で
意識はとんで
 愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。愛のひとつの「対象」にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどうかかわるかを決定する態度であり、性格方向性のことである。もしひとりの他人だけしか愛さず、他の人びとには無関心だとしたら、それは愛ではなく、共棲的愛着、あるいは自己中心主義が拡大されたものにすぎない。
 ところがほとんどの人は、愛を成り立たせるのは対象であって能力ではないと思いこんでいる。それどころか「愛する」人以外は誰のことも愛さないことが愛の強さの証拠だとさえ、誰もが信じている。
(エーリッヒ・フロム『愛するということ』)

2021/07/07

 自分を不幸だと思っている人間は、じっさい不幸だから、自分を不幸だと判断しているのである。あるいは? 自分を不幸だと思うこと(さらにはそれを人に言うこと)によって何らかの利益が自分にあると見越しているから、そう判断しているのかもしれない。このような心の二面性は、不幸うんぬんにかぎった話ではない。一事が万事に当てはまる。私たちが心の中で、そうとは意識せず自分自身をだまくらかすそのやり方は、あまりにも巧妙なので(「人の内心を嗅ぎまわるスパイ」とはよく言ったものだ)、もう何一つ断定しない方が良いくらいである。

 もっともこういった、人間の心の中に土足で入り込むような意地の悪い分析は、他人に対してするべきではない。自己批判のためにするのである。もし他人に対してそれをするのであれば、その人の内心がたとえどうであれ、それを受け入れるような愛情をもってしなければならない。意地の悪い心理学者みたいになってはいけない。それに結局のところ、人間の心の中がどうなっているのかは私たちには隠されているのだし、何一つ断定する資格はないのである。もししたいのであれば、どのような判断がより愛情に満ちているかを考えてみることである。

2021/07/05

「(…)で……やつをどうするね? 銃殺にすべきだろうか? 道徳的感情を満足させるために銃殺に処すべきだろうか? 言ってみろよ、アリョーシャ!」
「銃殺にすべきです!」青白い、ゆがんだような微笑を浮かべて兄の顔を見あげると、アリョーシャは小声にこう言った。
「ブラボー!」とイワンは有頂天のような声で叫んだ。「おまえがそう言うとなると、こりゃもう……いや、たいしたお坊さんだよ! してみると、おまえの胸の中にも、ちょっとした悪魔の子供ぐらいはひそんでいるんだね、アリョーシャ・カラマーゾフ君!」
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)

虫唾が走る文章/道徳心理

 どう考えてもそれは悪いことだよね。どんなに上っ面よくキャッチコピーしても理屈をこねても、それは火を見るよりも明らかに悪いことだよね? それが人の道に外れていないと心から思っているとしたら(じっさいそうなのかもしれないから難しいのだけど)、ああやっぱり世の中にはまったく相容れない受け入れられない虫唾の走る人間がいるものだなと結論するしかないような気がしてならないわけでじゃあまた振り出しに戻るのかと。もちろん理屈としては彼女/彼らにはかくかくしかじかの理由があって事情があって過去があってじっさいは虐げられてきた側の人間でほんとうに悪いのはもっと強いやつらだということになる(もしかしたらこの僕自身もそうとは知らずその片棒を担いでいるのかもしれない。だとしたらどの面下げて僕はこんな醜悪な文章を書いているのか?)。してみるとまあ構図としては虐げられてきた側の人間が自分よりもさらに弱い立場にある人間を心の中でさんざ否定したあげく、こんなやつらには人権ないも同然だから何をしても許されるよね、でもそれを言うと角が立つからオブラートに包んでこっそり搾取しようねとまあこういうわけなのだろう。このようにどんな結果にもかならず原因はあるわけで人を断罪する資格はたぶん誰にもないけど個人的な感情の話をすればまったくもって虫唾が走る。これは間違った文章だからこんなものを公開すべきではないんだけどいま感情がおさえられずどうしようもないのだ。どうせこいつ人生上手くいってなくてむしゃくしゃしてるからこんな文章書くんだわ、自分の負の感情を他人にぶつけてるだけだわと思われてもしかたがない。

2021/07/04

転機

外にあるものを
内に引っ張りこもうとする
のではなく
内にあるものを使って
外に働きかけることが肝心
されようとするのとするのとでは
まったく違うのだ

これはなんだかぐっとくる教訓
そこでわたしは
この世界を
ゆっくり眺めてみました
この
触ることのできる現実に
息つくひまない網の目に
足を踏み入れる心の準備を
しています
頼れるひともいまはいない
お母さんわたしは
こわくて泣きそうですが
困っているひとはいつもいる
よく観察すること
最初にすることはこれでしたね
あとのことは
どうとでもなるでしょう
ではでは
明るい場所でまた

2021/07/03

生活

 こうやって
ただ座ってじっとしているだけ
それだけでわたしは
頭の中で数々のスリリングな生活が
できるの
現実の生活は何一つ必要ない
そう思えてくるくらい
 なるほどたしかに
それは安上がりで素晴らしい
生活だけど
それを否定はしないけど……
本当の驚きはきっとないだろうね
怯えることもないわけだけど

 嘘をつくことなしに自分について述べることは不可能である。どんなにごまかさないよう努力しても、どこかで自分に都合の良いように物事を解釈し、心の状態を改ざんしてしまう。言葉は自分を宣伝するための道具でしかなくなる。好きなこと、感じること、思うこと、考えること、すべて心のあるがままを記述することができたらどんなにいいだろう。だけどそれはどうしたって不可能なのである。「きみに喋るときはいつでも、今だってそうだが、ぼくが口に出しているのはぼくの考えそのものではなくて、きみに印象を与えて反応を起こさせるようなことなんだ。ぼくらの間でさえこのとおりだぜ——ごまかそうという動機がもっと強ければ、いくらだってこういう事態になるぞ。じっさい、人間はこういう点にはまったく慣れっこになっていて、とうていわかるわけがないのさ。言葉全体が嘘をつくための道具なんだ」。

 ……してみると、このブログもやっぱり、ただ自分のことを読者に印象づけようとするだけのがらくたという感じがしてくる。ぶっちゃけいつでもそんな気がしています。かつてツイッターをしていたときには特にそれが嫌で、いつも自分のツイートにいかがわしさを感じていました。それで私はここ数ヶ月、できるだけ文章から我を取り除くよう努力してみました(まったくきりがないのですが)。お喋りだった中高のときの私は、そのときの友人と会話するときにしか残っておらず、いまでは黙っていることがベースになってしまいました。じっさい声を出さずとも、明るい表情とジェスチャーをしていれば誰も私を怪しい人間だとは思わないのです。あとは「ありがとうございます」と「すみません」をしっかり言えればもう言うことなしです(これに気づいたとき、そうか話さなくていいんだと思い、とても感動したことを覚えています)。

2021/07/01

 これはどうせ再び読むことになるだろうから、いまはさっさと読み切ってしまいたい。ちょっと難しいところはあるけれど、すぐ理解しようとしても仕方がない。そう思いながら、自分としてはすごい速さで、アイリス・マードックの『鐘』という小説を読み終えました。とても良かったです! そして、これから読み返していくうちに、もっと良くなっていくことでしょう! 私はドストエフスキーの小説を読んでからというもの、ほかの作家の本を読んでみても、しっくり来ないことが多かったのです。感性が貧しくなってしまったのかと思いました。

 ドストエフスキーとマードックの小説に共通しているのは、倫理の問題を扱っているということ、それでいてまったく押し付けがましくないということです。どちらの作家も、人間についてとても深い分析をしているのですが、とはいえ、現実を描写することを第一にしているように私には思われます。起こる出来事、登場人物の心の動きは、作家の恣意的なものではなくてただあるものだという感じがします。だけど、それをどのように描写するか、ここに作家のものの見方が反映されており、思想うんぬんよりも、この世界に対する愛着がかいま見える気がします。

2021/06/30

倫理についての雑文

 良いことと悪いことが分かるからといって、自分なりの倫理的基準を持っているからといって、ちゃんとその通りに行動できるというわけではない。それでも私には、こういった基準なしではとてもじゃないけど生きていけないように思われる。私の心のなかではつねに、一方には良心、もう一方には欲望、怠惰がある。この二つははっきりと異なっているので、ごくごくまれにしか一致しない。こんなふうに、心のなかに二つの極があると考えてみる。そしてこれは私にとっては、なんというか……とても安心できる形である。

 このような形なしでは、心がばらばらになってしまうのではないか。引き裂かれる感じではなくて、四方に飛び散るといった感じがするのではないか。良いことをするにせよ、悪いことをするにせよ、それを眺めて評価できるということそれ自体がまず喜ばしいことである。当然そのような評価には間違いが含まれているはずである。これはどうしたって避けることができない。そしてそれを自覚することこそ、何にもまして大切な感覚であることは言うまでもない。

 何が良いことなのか、〈善〉とはいったい何なのか、こういった問題に答えることはできない。これまで多くの偉大な人たちがそれについて考え、いまだに答えが出ていないのだから、もし誰かがそれを知っているような顔をしていたらそれはその人の欠点である。善悪という概念を思い浮かべることはできるけれど、善悪をそれ自体として知ることは誰にもできない。私たちにできるのは、直観的に「あれは良いけど、これは悪い気がする」と思ったら、その理由を考えてみることである。正しい理由を与えることができるかもしれない、いや、それは正当化された自分の欲求、願望でしかないかもしれない。ここでは自分の心に公平であることが大切である。

 明るくて、開けていて、美しくて、完全なものというイメージが〈善〉にはある。それは遠くの方にある。あるとしたら上の方にあるだろう。それがある方向がそもそも上なのかもしれない。そしてそれは私自身とどれほど異なっていることか。だけどそれがあるから向かうべき方向が分かるのだし、心がどっちつかずになっているときの最後の決め手にもなるのである。世界の見方、物事の認識を与えてくれ、そのために涙を流すということも起こり得るのである。

2021/06/23

空気のうすい

ああかなしい
さびしい気持ちもする
ここは空気が
うすくて
どうしようもない
夜はとても静かで
おそろしいくらい

わたしの視界に
うすい膜がはって
あなたのことが
よく思い出せなくなる
時がある

存在と名のつくもの
すべてが眠ってしまった
だけど心はざわざわ
ゆれている
すすきはきらきら
光っている

ちいさく息をしている
わたしを驚かせるもの
何もない
たった一人きり
もうこんなにも
遠くまで来てしまった

2021/06/22

 メタ倫理学という学問の入門書を読んでいるのですが、ひょっとしたらこのメタ倫理学という学問は、「メタ」なんてついてはいるけれど、私たちが日常的にしている倫理的思考にもっとも近いことをやっているのでは、という気がしています。たとえば、Aさんが言った「〇〇することは良いことだ」という意見は、客観的なものではなくて、主観的なものなのではないか? とか、そもそも客観的な(誰もが認めると言えるような意味での)善悪なんて、はたしてあるのか? ないような気がするけれど、まったくないとまで言ってしまっていいのか? みたいな問題(とその他いろいろ)を扱っているようです。かなり面白い……!

懐かしい匂い

朝起きると
さあっと心がゆらいでいる
感じがして
夢のなかの懐かしい匂いへ
ふたたび戻っていこう
そう考えた
そこには幼少期の
家庭の安らぎがあって
泣いてはいるけれど
子供の悩みは
可愛らしい

美しい箱庭
光り輝いているけれど
私はもうその外側にいる
それでもかまわない

体の動きがそのまま心
である子供
それを恥ずかしく思っている
すこし早熟な子供
私たちはみなその延長
いまとなっては
微笑むことしかできない
それでもかまわない

2021/06/20

意味

あるときを境に
ものが見えなくなった青年
視界に映るは様々な色
その混ざり合い
言葉は通じず
彼はこの世界のよそ者
となった……

ほらここに
かわいい一組の男女がいて
一緒に涙を流している
向かい合い
喜びに息詰まらせている
それを上から
眺めるは宇宙
ああすべてが
このようでありますよう
ああきっと
そう成りますように

2021/06/19

 1999年生まれ、性別は男、大学生。

 考えたこと、心に浮かんだことを書いています。できるだけ上手に文章を書こうと努力します。本の気に入った箇所の抜き書きをたまにします。

 一番好きなキャラクターは、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の主人公、アリョーシャです。この小説とアリョーシャという人物像からは、とても多くのことを教わりました。たびたび読み返しては、思い浮かべては、自分の心のあり方を決める手がかりにしています。

 生活の楽しみは、友人の家に泊まりに行くこと、夜、家の近くのゆっくりできる店に行き、そこで本を読むか、考えごとをするか、ネットサーフィンするか、何もしないか、することです。

 ma2.tiger.1999◻︎gmail.com(◻︎→@)

2021/06/18

 私の頭の中にある、私がこしらえた倫理的判断(良いこと/悪いことの判断)は、私自身を評価することにのみ適用されるべきであり、私以外の人間を評価するさいの道具にしてはならない。なぜなら、まず第一に、そのような判断は私の頭の中にあるというだけで、ほかの人の知ったことではないからである。そして第二に、もし倫理にかんする私の意見を相手に伝えたところで、それに同意しろ、と主張できる理由など何一つないからである。

 また、私はさらに一歩進んで、「私に好かれたいのであれば、私が良いと思うような人間であれ。あるいは、少なくともその努力を示せ」というよくある言説にも陥らないようにしたい。もしも私が、自分の倫理にそぐわないという理由で誰かのことを嫌いになるとすれば、それはあくまで私の心の問題であって、その人のせいではない。なぜならそれは、客観的な良い悪いではなく私の好き嫌い、つまり恣意的な(=主観的で自分勝手な)判断だからである。要するにそれは、私の利己心の表れ以外の何ものでもない

 それにたいして、長所があるから愛されるとか、愛される価値があるから愛されるという場合は、つねに疑念が残る。ひょっとしたら自分は、愛してもらいたい相手の気に入らなかったのではないか、といった疑念を拭い去れず、愛が消えてしまうのではないかという恐怖がたえずつきまとう。しかも、愛されるに値するから愛されるといった類の愛は、「ありのままの私が愛されているわけではないのだ」「私はただ相手の気に入ったというだけの理由で愛されているのだ」「要するに私は愛されているのではなく、利用されているのだ」といった苦い思いを生む。
(エーリッヒ・フロム『愛するということ』)

2021/06/17

思い出

ああ思い出した
むかし泥の中にいたこと
頭はぐちゃぐちゃ
思考はぐるぐる
真っ暗闇
一人叫んでいたこと
ああ思い出した
まるきり頭がおかしい
病院に行ったらいい
何なのこれは本当に怖くて
いったいこれが人生
ああ思い出した
みんな溺れている
きっといまも溺れている
よくもまあ
けろりと忘れて
ぬくぬく暮らしているもの
ああ何にもできやしない
ぼくはただ奪うだけ

がんばれまだお前にも
仕事はある
心を明るくしていなさい

最近の読書/三島由紀夫について

 ここ一、ニヶ月ほど(?)あまり集中して本を読むことができなかったのですが、ようやく先日、三島由紀夫なら読めそうだ、ということに気がつきました。そんなこんなで『鏡子の家』を読み終えて、いまは『美しい星』を読んでいる最中なのです(過去には『永すぎた春』と『夏子の冒険』を読んだことがあるだけでした。チャーミングなヒロインが活躍する小説たちです)。

 この人の思想についてはよく知りません。どうやら右らしい、しかもそれで自殺までしたらしい、ということは知っています。三島由紀夫の政治思想だけを切りとるとしたら、まったく何の親しみも感じない、というのが正直なところです。それで私はいままで三島由紀夫を少し敬遠していたのでした(私自身はどちらかといえば左寄りだと感じています。そう確信していた時期もあります。もっとも、こういったことが馬鹿げたことではないとすれば、ですが……)。

 ただ、思想ではない、三島由紀夫とはどういう人間なのか、という部分をあれこれ調べたり考えたりしているうちに、思いのほか彼のことが好きになってしまった自分がいます。とても人間的で、心優しい人なんだなあ、という印象を受けました。それに正直な人だとも思いました。

 心優しい怪獣、という表現が似合っていると(勝手ながら)思います。頭がすごく良いので、たくさんの批判を浴びつつも、そういった批判はすでに一人のときに考えたことがある、だけどそれらに十分な反論をすることが自分にはできない、ということもまた重々承知している。それでも何か人には言えないようなことのため、言ったら嘲笑を浴びるかもしれないけれど自分にとっては一等大切なもののために、どうしても自分の信念を曲げるわけにはいかないでいる。たった一人きりで自分の絶望から脱しようともがいている。それはとても苦しいことなのだけど、自分の苦しみを決して外には出すまいとしている。……そんな感じの人なのかなと思います。

2021/06/14

礼儀正しさ/私の心の問題

 すべての人に対して謙虚で、礼儀正しくありたいと思う。「私は何よりもすべての人びとにたいして丁寧で、正直でありたいと思いました。いや、それ以上のものを、私から要求する人はいないでしょう」。誰も私からないがしろな扱いを受ける恐れのないよう、自分の心のあり方を模索していきたい。行為や態度ふるまいよりもまず、心のあり方を模索するのである。「こまかい心づかいや品格を教えてくれるのはその人の心で、決して踊りの先生じゃありませんよ」。ろくにものを言えなくたってかまわないから、態度ふるまいだけで選手に敬意を表明する、礼儀正しいボールボーイみたいになれたらどんなにいいだろう。

 じっさい世の中には、いわゆる性格の悪い、容姿の醜い、あるいは貧乏で汚いという理由で、他人を軽蔑する人たちがいる。そして恥ずべきことに、この私自身、誰かと話すときや誰かを見たときに、その人に対する醜い感情が心に生じることがあるのを否定することはできない。なるほど、そうだとすれば、これは私の心の問題である。私を困らせるようなことをする人がいるかもしれない、私自身が「こいつはどうしても受け入れられない!」と感じてしまうような人がいるかもしれない、(自分にそれほどの値打ちがあるとは思わないが可能性としては)しつこく付きまとってくる危険な人というのがいるかもしれない。それでも依然としてあるのは、私の心が一人の人間に対してどのような反応をするか、という私の心の問題なのである。

 世の中と他人にいちゃもんをつける、あるいは平和を訴えようかな、その平和を害するような人は地獄にでも堕ちればいい、と心の中でつぶやくことがあるとする。しかしもし本気で「世の中を良くしたい」だの「他人を良い方向へ導きたい」だのと思うのであれば、あるいは「世界平和を考えている」だのとぬかすのであれば、私はヒロイックな空想に心を奪われることなくさっさと現実的になって、世直しをするなどと偉そうなことを言うのではなく、私自身の心の方をこそ治療しなくてはならないのだ。醜い感情が生まれることのある私の心が治り、私の心がいくぶんましになるとき初めて、世の中もまた良い方へ向かっていくのだし、世界の善悪のバランスがいくぶん善に傾くのである。そのような道のりでしか世の中は良くなっていかないのである。

2021/06/11

 自分はかわいいと思っているやつはまったくろくでもないと思うときがある。でもよく分からない。どこまでが偏見なのかよくよく考えてみる必要がある。かくいう私は全人類みなかわいい(ただし自分をのぞいて)と思えるようになりたい。そういう人間になりたい。白状すると私はときどき自分にもかわいい瞬間があると思うことがある。でもそれは恥ずかしいことだといまは考えている。人からかわいいと言われると嬉しくなる自分を恥ずかしく思う一方、素直に喜ぶのもべつに悪くはなかろうと思ったりもする。ありがとうございますと言うようにしている。

深呼吸

すうっと深呼吸
上手くいけばざぶんざぶん
おしよせる大きな波
それに身をまかせればいい
まどろんで深呼吸
ほどよい緊張と
心地よい安らぎ
ただじっとしていればいい
夜の空気が体に充満する
座ったままで夢現
まだすこし落ち着かない
人の視線が気になるかなあ
手の置きどころが悪い
肌寒いので上着をはおる
よしこれでいいだろう……
すうっと深呼吸
快楽にも似た
至福が頭のなかに広がる
わたしは奥深く潜っていく
体の輪郭は不鮮明
思考はちぎれて混ざって消え
意識はこまかい粒になって霧
すべての活動は止み
静謐のおとずれ——

今度上がってくるときには
穏やかな喜びを連れて

2021/06/10

安定と冒険と二人

安定と冒険
二人はいずれも手を抜かない
彼らはチームだ
片方が不安なときには
もう片方がなぐさめる
愉快なときにはあれこれ計画
いたずらっぽい二人組
それから冒険
お化け屋敷や
地の果てまでも
ゆらゆらついにわれを忘れて——
さながら快楽主義者のよう
二人一緒なら遠くへも行ける
怖くなったらすぐ戻る……
福は内にあり
外の鬼にも会いに行く
精神も肉体も二人のもの
彼らはチームだ
安定と冒険
二人はいずれも手を抜かない

良い子ぶること/偽善

 私はいまだに、自分がいったいどういう人間なのか、あまりよく分かっていない。高校生まではそんなことを問うてみようとすら思わなかった。その必要がなかったからである。大学に入ってからは家庭と学校の鎖からなかば自由になって、しかしその代わり、自分という存在がいかにおぼつかないものであるか、変化にさらされやすいものであるかを思い知った。「この自分」にかなった態度ふるまいを、血だらけになりながら模索するはめになったのである。

 いまでは、なるほど、それらしい態度ふるまいを身につけることができたように思う。滑らかで自然な態度ふるまい、とは口が裂けても言えないけれど、人に対するさいの人格というものはできつつある。しかし困ったことに、それがあんまり良い子ぶっているのではないか、と私はいつも心配になるのだ。だからといって、良いことと悪いことの自分なりの基準を持っているのに、わざわざ悪い方を選ぶ気にはとうていなれないので、できるだけ良いと思う態度ふるまいをしているしかないのだが。要するに、偽悪的にふるまっても仕方がないので、偽善的にふるまっているということになるだろう(偽善をいみ嫌うあまり偽悪的にふるまうというカッコつけたがりも、いるにはいる。いずれにしても嘘をつくことには変わりない、悲しいことに)。

「私はあなたが思っているよりも複雑な、不純な人間である。もしかしたら打算的ですらあるかもしれない、そうならないように努力しているけれど……」。機会があればこのようなことを相手に伝えている。自分がどんな人間であるかは分からないけど、それでも確かに「本当の私」と呼べるものはあるのだと素朴に信じている。しかしそれは私には隠されているので、見ることも知ることもできない。ただそれがあるということだけを信じているのである。だからそれをできるだけ正確に伝えるために、いつでも自分の把握できるかぎり、力のおよぶかぎり正直でありたい。偽善的になってしまうさいには、せめてそれを恥じるか、白状するかしたいのである。

2021/06/09

 一度でも心を開くということは、そのさき一生、その相手に対しては心を開いている(あるいは、少なくともその心づもりがある)ということである。私の倫理観に照らし合わせればそういうことになる。もちろん、現実的にはそんなこと不可能だし、それを徹底しようとすれば人間関係は窮屈になってしまうだろう。しかしだからと言って私は、その日そのときで誰をどのくらい受け入れるか受け入れないかは自分の勝手なのだ、となんの後ろめたさも感じずに開き直っている人たちの仲間入りをしたいとはつゆほども思わない。いつでも両手を広げているような人間でありたい。相手の必要としているときに必要としている分だけ付き合う、まあ言わば、相手にとって「都合のいい人間」になれるものなら私はなりたい。

2021/06/07

 電気グルーヴのアルバム『A』にどハマりしてしまいました。一年くらい前に聴いたときには特別なにも感じず、ふざけているなあ、歌詞が少ないのはちょっとつまらないかなあ、などと思っていたのですが。先日たまたま入った服屋さんだか靴屋さんだかで「Shangri-La」のインストゥルメンタルが流れていて、これめちゃくちゃ聴いたことあるぞ、なんだっけ……と三十分ほど苦しみつつ考えたすえに、おお電気グルーヴだ!とふと思い出して、大急ぎで『A』を聴いてみたのです。そしたらなぜかハマってしまったのでした。アルバムごとにシャッフルして聴くか順番通りに聴くかしているのですが、このアルバムはどうやら上から順番に聴く方が楽しいようです。

2021/06/05

夜の散歩

メアリージェーンという曲
聴きながら
すずしい夜の散歩
ゆらゆら頭のなかでゆれている街灯
すっかり心地よい甘美なリズム
おしよせる大きな波
わたしはつい呑まれてしまう

ぐるりと輪になって浮かんだ
メアリージェーン
体に染み入る濃青色の大気
地上をさまようみじめな魂
きらきら遠くの灯りに魅せられて
ふいに恍惚と
わたしは霧に溶けてしまう

2021/06/03

はげしい欲望

自然あふれる箱庭
燦々たる太陽
心の安らぎ
あり得べくもない場所は——

彼はいま
はげしい欲望に駆られていて
とにかくお金が要る
なんとかして!
と頭の中で叫んでいる

かすかな風景
記憶の奥で光っている——

ふっと正気に返り
さあっと心が引いていく

ざわざわ夜の森林のような
だれもいない彼は部屋に一人きり
自分を罵っては頭をおかしくした

それを見ている者もいない

2021/06/02

ちらついて

ちらちらちらついている
したこともない生活
美しい曲線
身体が燃え上がっている状態

ぱっと映像
渇いているという感覚
方法ならいくらでも
いずれ私は若くない人生は二度とない

一方 ここは修道院

どちらも常軌を逸した夢のようで

2021/06/01

愛憎が入り混じった感情

 この年齢になってはじめて、一度親しくなって(あるいはなりかけて)なぜかすれ違ってしまった人たちに対する、複雑な感情というものを学んでいます。愛していたり憎んでいたりがごっちゃになっている感情です。恋愛をした後にこうなるケースが多いとは思いますが、必ずしも恋愛でというわけではないようです。恋愛感情にせよ尊敬の念にせよ何にせよ、その人に対して抱いた感情が大きければそれだけ、不和があったときに感情がより複雑になってしまうようです。

 こういう場合の一番深刻なことは、心の中に生じる自分の感情を、この私自身ですら信用できないということでした。ましてや他人がそれを信用することなど、できるわけもありません。いまこの瞬間には愛着を抱いているとして、それを相手に伝えたとしても、いったい誰がそれを信用するでしょうか。一瞬だけ愛しているだとか、あるとき好感を持っているというだけでは、その人との関係を進める(あるいは修復する)上で、ほとんど役に立たないのです。

 この問題についてたくさん考えました。いついかなるときも愛する、いつでも親しくなるための心の準備がある、抱擁を交わすための両手をつねに上げている、そういう人間になりたいと何度思ったか知れません。いつでも愛するということができれば、相手がたとえそうではなくとも、いつかは必ず親しくなれるのですから。でもとにかく現時点で私はそれができない、要するに私は、愛にかけては大変な未熟者である、ということになります。

 いまの私にできることは、せいぜいこういった分析を文章にすることくらいです。この文章を読んでもらう、そしてその内容に同意してもらうことで、一定の(最低限必要であるくらいの)和解が生まれるかもしれないと考えているわけです。あなたと私との間にというよりかは(もちろんそれも重要なのですが)、あなたとその周囲の人たちとの間にです。いやそれだけでは全然足りない、むしろ腹が立った、という人もじっさいいるかもしれませんが……。

 この文章が、ごう慢さを帯びていないことを切に願っています。私はすれ違ってしまった人たちに対して、申し訳ない気持ちを抱いています。ときにはそれが深刻になり、もう何でもかんでも私が悪かったのだと思うことさえあります。しかし一方で、その反対のときがあることもやはり事実です。この文章は、そういった愛憎が入り混じった感情について、できるだけ冷静に、公平に、正直に述べようとしたものです、できるだけその内容を信用してもらえるように……。

2021/05/29

 伝道者ソロモン曰く、「空の空、空の空、いっさいは空である。……世は去り、世は来たる。……川はみな、海に流れ入る。しかし海は満ちることがない。……先にあったことは、また後にもある。先になされたことは、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。……前の者のことは覚えられることがない。また、来たるべき後の者のことも、後に起こる者はこれを覚えることがない」。憂鬱の知恵はこう語る。行為し言論を交わしつつ人間が現われることのできる場所としての世界への信頼が消え去ってしまったとき、こうした知恵で人間はみずからを慰めるのである。
(ハンナ・アーレント『活動的生』)

メルヘン

わたしはわたしは
良くないことを考えていた
空恐ろしいとは思いつつも
いやどちらにせよ
はなからすべて空っぽだと
思うようになっていた
それで……
心がふっと
一瞬 浮いたかと思うと
体までもが
地上をはなれてしまった
これで自由になったんだ
そう思うと
胸が高鳴るのを感じた
でもじきに
もうもとには戻れないと気づくと
ちょっとだけ不安になった
いいや大丈夫よわたし
これはわたしの望んだこと——
でもますます不安は大きくなった

わたしの夢の実現は
メルヘンで願いごとが叶う瞬間と同じく
夢見ていた幸せが呪いとして働くという
不幸なめぐり合わせとなった

もうわたしの目をひたと見つめて
ものを話してくれる人は
どこを探してもいないでしょう

2021/05/27

意地づく

いまここで
重心を低くしないと
体を丸めて
大地に額を押し付けないと
この男はぱっと宇宙空間に
放り出されてしまう
かなしい人工衛星みたいだ
へその緒で繋がれていた頃の記憶は
失われつつある
なんとかして泣きたい
これらすべてに謝りたいのだけど
この後におよんでまだ
強情を張っているらしい
いままでに言ったことを
何一つ変更したくなくて
意地づくになっているのだ
どうしたってもうそんな孤独で
生きていけるはずもないのに

誕生

とある政治家は
ある日こう言いました

産めよ殖えよ

いやはや偉大なお言葉です
これこそまさに自然の命令
男は労働
女は出産のため
生まれて来たのだから

強さとは速さ
経済をもっと
速くまわさないと……

ものを考える人たちは
とても真剣に議論し合っています
こういった暗い時代
戦争のさなかに子供を産むことは
あらゆる点において正しいことだろうか?
生まれるときから社会の犠牲になる運命を
背負わされる子供たちなど
生まれない方がいいのでは——

それでも神さまは
地球に生まれる子供とその日を
両手を上げて祝福する

2021/05/26

人間の一生

のろりのろ
母なる大地をはいまわる
毛虫にも似ている
人間の一生はとても苦痛
さまざまな制約
良からぬ思惑
この肉体はいとわしく
第二の誕生はのろわしい

それでも偉大な彫刻家は
この作品に息を吹きこみ
その独り子たる建築家は
自らを犠牲に土台を築く

わたしは何も分からない

すべてがいずれ
あるべき場所に収まって
一つの流れになるという
人工衛星は地球をはなれ
ゆらりゆら
蝶のように舞い
やがて宇宙のちりになる

わたしは何も分からない

なぜ何から何まで
こんなふうなのか?
どんな意図があって
責任は一体誰にあるのか
目に見えるもの
心に浮かぶこと
衝動となって
たえず訴えかけている

それでも
わたしは分からない——

2021/05/23

 さっきね、一羽の鷹が入って来たのね、そしたらあたし、とたんにがっくりなってしまったの。「馬鹿ねえ、あたしの愛してるのはこの人じゃないか」——そのとたん、心がそうささやいたのよ。あんたが入って来て、たちまち何もかもはっきりさせてくれたの。「いったい、この人ったら何をこわがっているのかしら?」って思ったわ。だって、あんた、びくびくもので、それこそびくびくもので、ろくに口もきけなかったじゃない。この人のこわがってるのは、あの人たちじゃないって思ったわ。だって、あんたは人をこわがるような人じゃないもの。これはあたしがこわいんだなって思ったの、あたしだけがこわいんだって。
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)

2021/05/22

「何を言うんだね。でもきみの恋は憎しみとすこしも区別がつかないものなんだね」公爵は微笑した。「もしその恋が消えてしまったら、もっと恐ろしいことがおこるかもしれないね。パルフョン、私は、それだけははっきり言っておくよ……」
「じゃ、このおれが斬り殺すってことかね?」
 公爵はぎくりと身を震わせた。
「きみは現在の恋のために、現在うけている苦しみのためにこそ、あの女(ひと)をとても憎むことになるんだよ(…)」
(ドストエフスキー『白痴』)

2021/05/16

かすかな風景

なつかしいもの
わたしは好き
でもちょっとさみしいような
かなしいような気持ちになる
公園のわきを歩いているとき
たとえば小学生の男の子から
そのボールこっちに蹴って とか
頼まれたりしたらたぶんわたしは
あわててしまってどうにも声が
出せなくなって あ ああ うん
いますぐ蹴るからすこしまってて
って 心のなかで返事をしながら
失敗しないようすごくていねいに
ぎこちない動きでわたしは蹴る
するとすぐに男の子は
お礼を言って走って
わたしから離れていく
わたしは一人とり残されて
記憶のすみにもいさせてくれない
なんだか遠いという気持ちになる
忘れているなにかを思い出せない
という気持ちになる
みんないなくなってしまった
なんにもなくなってしまった
という気持ちになる
心にかすかな風景がうかんで
すぐにぼやけてきえてしまう

2021/05/14

ずっと遠く

歩いて行けたら
空と地平線の接する場所まで
そこには
一つの答があって
すべてが瞬時に見出される

歩いて行けたら
平行線の二本が交わる点まで
そこには
一つの扉があって
すべての客人を迎え入れる

歩いて行けたら
いいのだけど……

2021/05/13

夜はとても

いまは亡き王女
きょうの夜はとても
とても静か
光りかがやく満天の星
ちりばめられた蒼穹が
地の果てまでも
どこまでも
大地と天空がふれあう
地点と——
どこまでも
いまは亡き王女
子供とおなじ
あなたの喜び
草花はぬれている
湖は人間の心のよう
ふたつの静けさがとけあい
ふたつの神秘が
まじりあい
つねにすべてを迎え入れ
すべて真実で
美しいものたち

2021/05/10

大海のよう

すべては大海のよう
つねに流れ動き
隣り合っており
どこか一端にふれれば
たちまち宇宙の果てまで
波は伝わる
怖い顔をして歩けば
それを見た子供は
人間不信に
悪態をつけば
どこかで人が殺される
嘘をつくたび
世界から真実が失われる

いつも体全体を
明るく美しく保っていなさい
そのための灯りは
あなたの心である
何を言おうかと
心配するな
明るい心にすべてを
決めてもらいなさい
何度でも
灯りを点けなさい

2021/05/08

それなしでは

さあ
これが私の秘密
それなしではとても
とても
生きていけない
私はあなたにお仕えします
もっともこれは
隠すべきこと
それで?
私のことは
誰かが何とかしてくれる
あなたのことは
私が何とかするつもり
これが彼の約束
それなしではとても
とても……
あなたはパンなしで
生きていくおつもり?
いいえ
私はパンが大好きなんです
甘いものにも
目がなくて……
禁止されていること
少年少女
砂糖と果物を鍋でぐつぐつ
ジャムはお好き?
ええ もちろん
それなしではとても
とても
生きていけないほど
好きですとも!
もっともこれは
恥ずべきこと
ひき臼を首にかけられて
海に放り込まれたいの?
悪魔にでも
さらわれちまえばいいさ
と思うよ

2021/04/23

子供みたい

とにかくこの人は
ついさっき人を殺したばっかりで
いまもまだ気が立っているから
いまにも気が
触れてしまいそうだから
私がこの人のそばを離れるわけには
いかない
外ではもうすでに大変な
騒ぎが持ち上がっていることだろう
たぶん朝がきたら
警察がやってきて
この家を押しあけて
暗くてこわい場所に連れて行って
しまう
そうしたらこの人はどうなって
しまうんだろう(だって
いまもなにやらぶつぶつ言ったり
いきなり笑ったり
ぼーっとしたり
子供みたいに笑ったり
している
その間もずっと涙はとまらないのだ)
私はこうやって
ひたすら背中をさすってあげて
頭をなでてあげて
すると
幸福そうな目をするから(まるで
死の床にある
老人みたいに優しい目をする)
それをうっとり眺めている
ちょっとでも私が離れると
すぐにも気が触れて
叫んだり
怒鳴ったりしてしまうから
私がこの人のそばを離れるわけには
いかない
こうやってずっとさすってあげて
なでてあげて
安心させてあげる必要がある

2021/04/21

 福音書におけるイエスの教えでは、外見ではなく内心、形式ではなく内容、言葉と行為ではなく心がとても重視されている。イエスはこう言っている。「あなた達は(昔の人がモーセから)、〝姦淫をしてはならない〟と命じられたことを聞いたであろう。しかしわたしはあなた達に言う、情欲をもって人妻を見る者は皆、(見ただけで)すでに心の中でその女を姦淫したのである」。この言葉はとても顕著な例であろう。

「どう見える(seem to be)か」と「事実どうである(be)か」との対比は、聖書に影響を受けている文学のなかにも随所に見られる。『ハムレット』では「見えるですって、母上? いや、事実です。/「見える」ことなど知るものか」、あるいは『白痴』では「こまかい心づかいや品格を教えてくれるのはその人の心で、決して踊りの先生じゃありませんよ」という具合である。このほかにも、おそらく探せばきりがないであろう。

2021/04/18

私たちが一致するとき

 私はいまでは、自分の中にある感情と思考のどれ一つをとっても、それが私独自のものであるとは思わなくなった。私が心の中で感じることはどれも、ほかのすべての人間がすでに感じたことのあるもの、まさに感じつつあるもの、これから感じる可能性を秘めているものである。考えることについても同様である。

 私たち一人ひとりが互いに異なっているのは、与えられる環境あるいは影響がそれぞれ異なっているので、異なる性質が引き出され誇張されてしまうためである。しかし、私たち人間はみな、もとをたどれば同じ場所から来ているのだと私は信じている。正しいやり方で心の準備をするのであれば、私たちは誰とでも見事に一致することができる。「世界中にいる傷ついた人びとの/心が一致しあうとき/一つの答えが見出されるだろう/『そう成りますように』」(ビートルズ「レット・イット・ビー」)。

「相手の立場に立って考える」という言葉がある。もしも私たちが、完全に相手の立場に立って考えることのできる、完全な知性と想像力をそなえているならば(それができるのは神様ただ一人だけだろうが)、いやがおうでも互いに慈悲深くならざるをえないだろう。だけど私たちはしょせん人間であり神様ではない、そこまでのことを期待するのは無理である、と言う人がいるかもしれない。それはもっともな意見である。

 しかし、その考えはどうか、自分のいたらなさの言い訳に使うのではなく、他人のいたらなさを受け入れる理由として使ってほしい。そうしてこそ、言い訳ではなく心によって、自分のいたらなさをも受け入れることができるようになるのだ。互いのいたらなさを受け入れ、赦しあうことによってのみ、人びとの間にある平和、さらには一人ひとりの心の平和が生まれてくるのである。

2021/04/17

きみがまだ若くて
心がまだ
開いてある本であったころ
よく言っていたねえ——
生きる そして生かしてやる
って……
だけど
ぼくたちが生きている
変わってばかりのこの世界が
きみを挫折させ
泣かせるんであれば
こう言ってやれ——
生きる そして死なせてやる
と!
(ウイングス「007 死ぬのは奴らだ」)

2021/04/16

きょうの朝のこと

きょうの朝
私の愛しい人がやってきて
とっても嬉しそうにしているから
どうしたの? って聞くと
大きな目を輝かせながら
やっとあの人が赦してくれたんだ!
って言って
思いきり私にとびついてきた
よくもまあこんな時間まで
って思ったし
あんなやつほっとけばいいのに
とも思ったけれど(だって
本当だったらこの人は何も悪くなくて
むしろあっちがこの人に
謝らなければいけないんだから……
少なくとも私の見解ではね)
でも このお人好しさんが
あんまり嬉しそうだから
こっちまで楽しくなってきて
そういったことはみんなどうでも
よくなってしまった
だって彼はもう
ほんとに子供みたいに
はしゃいでいるわけだから!
ああ この人はいったい何なんだろう
どうしてこんな
子供みたいで……
でもやっぱり大人なんだろう
だってどうして
あの人の赦しがほしいんだろう
しかもちゃんとそれを持ち帰ってきて
こんな はしゃいで喜ぶなんて!
ほんとに変わっている……
この人に会うまでは
こんな人がいるとは夢にも
思わなかった

2021/04/15

 たいていの人は「恥をかくこと」を何にもまして恐れている。私たちが互いに仲良くできず、避けあい、恐れあっているとしたら、それは人前で恥をかくことを恐れているからである。とことん恥ずかしくて滑稽で、みんなから嘲笑を浴びるけれど、まったくそれを気にしないような人間がいるとしたら、そのまわりにこそ大勢の人びとが集まるだろう。なぜなら、みんなその人の前では恥をかく心配はないと分かっており、安心して近づくことができるからである。このような人間は、もしかしたらかっこ悪いかもしれない。しかし、ほかの誰よりも尊敬に値する人間である。このような人間の性質だけが、私たちに平和をもたらすことができるからである。それに対して、「恥をかかないこと」を第一の心配事としているような人間は、なるほど、分別(といった意味での賢さ)ならたくさん持ち合わせているかもしれない。しかしそれらは、どこまで行っても利己的である。

2021/04/13

人間の心のはかり知れなさ

 人間の心のはかり知れなさについて考えるとき、私はいつも驚きと感動を覚えずにはいられない。他人の心についてはいまさら言うまでもないことだが、自分自身の心のはかり知れなさについても、やはり同じことが言えるのである。ためしに、過去に自分がした行動(できるだけ突飛なもの)を一つ選んで、その原因が何だったかを探ってみてほしい。おそらく、二つ以上の意図がとても複雑に絡みあっていたことに気づくはずである。

 たとえば私たちは、仲直りするつもりでできるだけ穏やかに話し合いを始めたとしても、どういうわけか最終的に、とことん悪口を浴びせあう結果に終わってしまうことがある。どういった話の流れで、どういった心の動きで、自分の意図していた反対の結果になってしまうのか、いくら考えてみても理解することはできないだろう。あるいは、もはや愛しているのか憎んでいるのかも分からないような相手に、困っているときの援助の手を差し伸べることがある。援助の手を差し伸べようとするまさにその瞬間、相手をこっぴどく中傷することもできるわけだが、紙一重のところで憎しみではなく愛が発揮されるのである。

 このような曖昧な心の動きにふり回されながら、私たちは互いに影響を及ぼしあって生活しているわけだが、そんな中、たとえば「あなたはなぜそんなことをする気になったの?」という質問を投げかけられることがある。いや、投げかけられなかったとしても、私たちはいつもそう質問されるんではないかとびくびくしていて、行動しながら同時にその言いわけを考えているかのようである。このような質問にはすぐに答えられるものではない! どうかじっくり考えさせてほしい、できるだけ正直に話すためにはどうしても時間が必要なのだから、と言ってしまいたくなるのである。しかも、その「じっくり考える」にしたって、日頃から考える訓練をしている者でなければ、「内省」とはどういうものかを知っている者でなければ、できない性質のものなのである。

 私たちはたぶん人を殺してしまったときでも、人を殺すその最後の最後の瞬間まで、自分がまさか本当に人を殺してしまうことになるとは想像もつかないのだろう。それでいて、よくよく考えてみれば、自分はいつか人を殺してしまうであろうことに、もうずっと前から気づいていたような気さえしてくるのである。人間の心とはどういうわけか、それほどまでにわけの分からないものであるらしい。「いや、このキリストを売った男を非難するのは、もうすこし待とう、こうした酔っぱらいの弱い心の中に何があるかは、神のみの知るところだってね」。

2021/04/05

 ドストエフスキー『白痴』の第一編(新潮文庫で四百ページほど)を読み直した。人間関係に起こるあれこれの出来事を、こんなにもスリリングに描いている小説はほかにない! のっけからアクセル全開で面白く、読者に登場人物についてのさまざまな空想をさせたところで、彼ら全員が一堂に会して常軌を逸した大騒ぎをくり広げる、といった構成になっている。しかもその大騒ぎは、第一編が終わる最後の数ページまで、加速度的にぶっとんでいくのである。私たちはただでさえ興奮しながらそれを見守っているのだが、物語はその興奮の火にますます油を注ぐかのようである(思わず目を疑ってしまうくらいに!)。ドストエフスキーの小説は思想の面で難解だと言われるけれど、この小説に限ってはそれほどでもなく、それ以上にただただひたすら楽しいものである。

2021/03/31

 わたしはこんな滑稽な小娘だけど、あなたは、あなたは……でもねえ、アレクセイさん、そういうわたしたちの考えの中に、というのは、つまりあなたの考え……じゃない、やっぱりわたしたちの考えだわ……その中にその人、その不幸な人を見下げているようなところはないかしら……つまり、いまわたしたちはその人の心の中をあれこれ分析したわけだけれど、何か上のほうから見おろすような調子はなかったかしら、どう?
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)

2021/03/30

良心の光で照らされた道

 人を殺してしまった人間がとるべき道は二つある。そのどちらの道を選ぶかにおいて、犯罪者は大きな葛藤を強いられることになる。

 一つの道は、自分を正当化できる理屈(ときには妄想)を生みだすことである。自分の行為は法に外れてはいたけれど、それほど悪行というわけではない、と結論づけてくれる理屈を考えだすことである。そうすれば、心の奥底にある罪の意識であるとか、「僕はこの地球をむしばむ害虫でしかないかもしれない」といった恐ろしい考えから、目を逸らし続けることができる。現実を認めることから逃げることで、自分を正当化してしまうのである。

 しかし、他人という存在は、自分の心の中にあるこうした暗い部分を、いともたやすく暴露してしまう。現実をまざまざと見せつけてくる。そのため、この道を選んだ者は、自分がなぜおびえているのかも分からないまま、たえず他人におびえていなければならなくなる。心の暗い部分を暴露されそうになると、はげしく動揺したり、攻撃的になったりする。人間的な結びつきを得ることができないので、生きた心地がしなくなる。

 もう一つの道は、良心にしたがうことである。自分の中にある罪の意識や恐ろしい考えを、良心という強烈な内なる光の前に、引きずり出してしまうことである。法の下の裁きは犯罪者を肉体的に罰するのに対し、良心による裁きは犯罪者をとことん精神的に罰する。彼は自分自身をひたすら罵り続けることになる。自分をほかの誰よりも低い者であると考え、自惚れと傲慢さがなくなる一方で、他人に対しては頭が上がらなくなるだろう。

 しかし、人間的な結びつきをもう一度得、他人との関わりの場所に復活するためには、犯罪者はこの道を選ばざるをえない。そうしてこそ、罪あるままの自分を受け入れ、愛してくれるような他人の心に屈服することができる。他人が自分を愛してくれることに感動し、善人に生まれ変わって新たな生活を送ることができる。この道のりはとても苦しいものだが、一生を自分の内側に引きこもって終えるよりも、はるかに幸せなものである。


 ここまで私は、人を殺すという大きな犯罪にしぼって書いてきた。そうすることで、人間の心の動きを分かりやすく追いかけることができるからである。

 しかし、このような葛藤それ自体は、人を殺したことのない大多数の人間にも当てはまるものである。その大きさが違うだけで、私たちは誰でも何らかの罪を犯している。人間はみな欲望を持っており、他人より自分を優先することがあり、良心の命じるがままに行動しないことがある。そのため私たちは、はっきりと意識せずとも、心のどこかで負い目を感じている。罪の意識から生じる葛藤を強いられている。

 二つの道のどちらかを選ばなければならないとき、私たちは良心の光で自分を照らす道、たえず自己批判を忘れない道を選びとるべきである。そうすることによってのみ、人間は他人を尊敬することができるし、他人からの愛に感動することができるようになるのだから。

2021/03/29

 とても興味深い英語の決まり文句がある。それは “There but for the grace of God go I” というもので、直訳すると「神の恵みがなければ私がそうなっていた」である。俗には、自分でなくてよかった、くらいの意味で用いられる。この決まり文句は、十六世紀のイギリスの聖職者、ジョン・ブラドフォード(叛逆罪で火刑に処された)が、刑場に引かれる犯罪者を見て叫んだとされる言葉 “But for the grace of God there goes John Bradford !(神の恵みがなければジョン・ブラドフォードがそうなっていた!)” を、その由来としているようである。この言葉の中にどれほどの真理が含まれていることか! あるいは、信仰を持たない人であればこう言うかもしれない。「サイコロをふり直して、今度は違う目が出れば、私がそうなることだってあるかもしれない!」。

2021/03/27

 邪悪な人たちを憎むのはやさしいことである。しかし、「罪を憎み、罪びとを愛せ」という聖アウグスティヌスのいましめを思い出していただきたい。ある人が邪悪だと気がついたときには、「神の慈悲がなければまさに自分がそうなっていたかもしれない」ということを思い起こしていただきたい。
 ある種の人間を邪悪だと決めつけることによって私は、必然的に、きわめて危険な価値判断を行っていることになる。主イエス・キリストはこう語っている。「裁くなかれ。なんじ自身が裁かれざらんがために」。(…)他人を判断するときにはつねに十分な配慮をもって判断しなければならないし、また、そうした配慮は自己批判から出発するものだということである。
(M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち——虚偽と邪悪の心理学』)

2021/03/25

 何か善いことをするときは、まず自分の心のうちにその志がおこり、おのずから善い行為となって外にあらわれてくるような人たちよ、私とともに、私のために泣いてくれ。じっさい君たちは、自発的になすこと以外は、何ものによっても動かされない。(…)御目の前で、私は自分自身にとって謎となりました。それこそはまさに私の病なのです。
(アウグスティヌス『告白』)

2021/03/24

 いつの時代、どこの地域でも変わることのないもの、普遍的なものの見方を身につけたい。人間はいつか必ず死んでしまうであるとか、誰も一人きりでは生きていけないということ、物質と精神、外見と内心、欲望と愛情、復讐することと赦すこと、弱肉強食と博愛、戦争と平和のような対立しあう生の現実は、人間が人間であるかぎりにおいて避けることのできない、永遠のテーマである。将来のことは誰にも何も分からない。これから先、誰と会ってどこで何をするにせよ、新しい時代が到来するにせよ、日本と世界の情勢がどうなるにせよ、犯罪者になって投獄されるにせよ、生まれた子供に障害が見つかるにせよ、何にせよ、私たちのするべきことに本質的な変わりはないはずである。あと必要なものがあるとすれば、良心にしたがう勇気、これだけである。私たちは心の中で勝手に、詭弁家よろしくあれこれお喋りしては、自らの良心を手なずけようとする傾向にある。しかし、いつまでもそうし続けているわけにはいかない。

2021/03/11

 ビートルズの「アクロス・ザ・ユニバース」は子守唄みたいな曲で、聴いていると身体がゆっくりと沈んでいき、心の中でばらばらになっていたものが一つ所に集まってくるようである。何でもないはずの一日をどれだけ緊張しながらすごしているか、まわりの人やものの呼びかけにすぐ反応できるよう神経をとがらせているか、それが分かって少しびっくりする(ちょうど、どこかで鳴っている機械音が鳴り止んだときはじめて、その音の存在と騒がしさを意識し、本当の静けさを理解するときのようである)。このとき、心のエネルギー状態(とでも言おうか)は、一番低い状態になっており「安定している」。私がずっと欲しかったものはまさにこれ、この心の安らぎだけを必要としている、これこそ人生で追い求めるべき当のもの、とさえ思えてくる。

2021/03/08

 一口に「愛情」といっても、「愛する」と「愛されようとする」とではまったく違う(しかし、それらを見分けることは難しい)。このふたつの姿勢にはちょうど、「与える」と「奪おうとする」くらい大きな違いがある。あなたがもし愛のある人であれば、奪おうとする人に対しては、気前よく与えなければならない。なぜなら、あなたの中にあるその愛も、いつか誰かから与えられたものなのだし、それを自分の所有物にしていいわけがないからである。

2021/03/05

悪役

なるほど彼は多くの人を
救ったけれど
この私がこうなるまで
私を見捨てていたのである
人の命をひとつふたつと
数えるわけにはいかないから
この私の命とほかのそれらを
はかりにかけることはできない
彼は九十九人で楽園をつくったが
私は私一人でそれに立ち向かおう
それだけのお話である
人は私を「悪魔!」とののしる
そして私もそのふりをするけれど
ほんとうの姿は
おびえた子供ただ一人である

2021/02/28

 どういうわけかふと怖くなって、自分はいますぐにでも学生相談室かなんかにかけ込んだ方がいい、それくらい重症かもしれない、と思うことがある。どんなに一人が好きであっても、一人で大丈夫だとしても、友達と会って話をすることをおこたるべきではない。自分よりもまともで、人付き合いに問題を抱えていない友達と会って話をすることは、一人であれこれ考えているうちにおかしくなっている頭に現実感をもたらしてくれる。

 私が思うに、「孤立していること」の怖いところは、さみしさよりもむしろ、何が現実であるかを他者と共有できないことである。目に見えているもの、心に浮かんでいることの確かさに自信を持てないことである。たとえば何かがうまくいきかけているとする、しかしその次の瞬間には、みんなに嘲笑され、軽蔑され、自分は騙されているだけだったことを思い知る(じっさいは誰も騙そうなどとは思っていないのだが)、それと似たような恐怖がつきまとっているのである。

2021/02/26

 何かに失敗したり悩んだりしている人に向かって(まさに面と向かって)、あなたの「ものの見方」のせいでそうなったのだ、人生に対する向き合い方がはなから間違っていたのだ、とはっきり言い渡すことほど残忍なことはほかにない(いったいなぜ、そうでなくてもすでに苦しんでいる人間を、それ以上責めなくてはならないのか?)。これは人間のもっとも繊細な部分に土足でずかずかと入りこむことであり、人間がそのおかげでばらばらにならないでいられる当のものを壊すことである。すでに尊敬を得ている人間がこれをすれば、他人を自分なしでは生きていけないように作り変えることができる。そのような人たちは、自分と自分の意見と自分の好きなものを押しつけることによって、弱い者に「改宗」を強いる、カウンセラーのふりをしているがじっさいは単なる病人である。他人を自分の意志のなかにゆっくりと引きずりこみ、その泥沼のなかで身動きをとれなくさせるのである(もしかしたら私は言いすぎているかもしれない)。

2021/02/25

内なる生活

ここは内なる生活です
すべてを決めている場所です
さあいすに座って
お茶を用意してあります
怒鳴らず静かに話してください
できれば敬語で
ここでお行儀よくすることが
一番大切です

どうやら嵐がきているらしい
ここは安全ですから落ち着いて
ろうそくを灯します
決して吹いてはいけません
ここに明かりがないとしたら
外はずっと嵐のままです

ここでは正直に話してください
ゆっくり考えながらで
かまいません
とても難しいことですから
練習してやっと身につくことです

ここは内なる生活です
すべてを決めている場所です
ちりの一つひとつにいたるまで
あらゆる人とものとこと
すべてを

2021/02/22

 心の動きははかり知れない。感じることはおろか、考えることすらもそうである。いまこの瞬間には気分は晴ればれとしていて、なにもかも赦すことができる(きっと赦してもくれるはずだ)、そしてすべてを愛することができる、という情熱を心のうちに感じているとしても、それを口に出して宣言できるほどの勇気はない。明日になればまったく変わっているかもしれないからである。この心の動きは間違いなく私のものだけれど、それを決めているのは私ではないのだ。こういう心でありたい、ということに迷いはないけれど、そのような理想とはべつに、現実としての心の動きがある。目で見えるこの世界の現実ともまたちがう、私たち一人ひとりが対峙している心の現実というものがある。きれいな心でいるためにはさまざまな条件が必要で、その条件の数だけ人は未熟であると言うことができる。

2021/02/18

この地上にだれか一人でも
苦しんでいる者がいるかぎり
それを思いだすたび
いつでも僕はおしゃべりを中断して
ただひたすら黙って
静かにしていなければならない
媚びへつらいと自画自讃
かげ口も愚痴もけんかもやめて
派手ばでしい浮かれ騒ぎをあとにして
喪服を着なければならない
そのとき僕はうつむいて
恥ずかしさに呼吸もできなくなる
目がくらみそうになる

2021/02/17

 自分の美点や他人の欠点について、あれこれ考えたりつべこべ言ったりすることは、ひかえた方がいいだろう。たとえするとしても、そのような判断はどれもあまり当てにならないことを強く心にとめておくべきである。なぜなら私たちは、自分自身とは死ぬまでつき合っていくしかないわけで、そのかけがえのない自分が他人より劣っているかもしれないという事実にはどうも耐えられない! そうした内心の葛藤から、自分の(そして他人の)イメージを勝手に作り変えてしまうことがあるからである。いや、ことがある、と言うだけでは足りないかもしれない。この点についての「公平な判断」などまったくありえない、とさえ言うことができる。だれもだれかの裁判官になる資格を持っていないのであり、判断はいつも保留にしておかなければならないのだ。

 したがって、そのような思考のあれこれ(私はこうだけど、あの人はああである)は、ほとんど当てにならないと考えていい。そして、さらにそれだけではなく、私は次のことを信じきっている。すべての人間があれこれの点では違っていても、その本質においてはまったく同じなのであり、だれ一人として例外はないということ、これである。なぜならどんな人間も、条件がそろえば「ほかのだれか」でありえたはずだし、しかもそれを決めたのは当人ではないのだから。私が私であることに理由はないのであり、私がなにを感じなにを考えるかすらそうなのであり、すべてはサイコロによって決められたようなものなのだから。「サイコロをふり直して、今度は違う目が出れば、ミス・キルマンのことが好きになることだってあるかもしれない!」のだから。

2021/02/07

会話

どうされましたか?
もう、うんざりなんです
あなたは苦しんでもいる?
ええとても
それで、すでにあるおきてを
 蹴っとばしてやりたいと思っているんですね
そうです
新しいおきてをつくるのですか?
その必要があるでしょう
だれがそれをつくるのですか?
私がするしかないでしょう
なるほど、それで……
 あなたはだれなのですか?
私は自分です
それだけですか?
みんなでもあると思います
それなら、お金持ちも含まれますか?
それは含まれません
人殺しは含まれますか?
含まれません
役人は?
含まれません
異教人は?
含まれません
だれが含まれるのでしょうか
おそらく、それは
 あとで私が決めることになるかと
この私は含まれるのでしょうか
それは分かりません
 が、たぶん含まれないと思います
では、私はどこに行けばいいのでしょうか……
それは自分で考えてもらうしか……
まあいいでしょう(書類にはんこをおす)
 ひとまず、やってみてください
ありがとうございます

 だれと仲良くするかを決めること、だれを助ける代わりにだれを見捨てるかを考えること、私たちが「人を選ぶ」ということ、これらはすべてまったく褒められたことではない。自分の欲求をおし通すため、こういったことは美徳であると言いくるめるさまざまな説明が、世間にあふれてはいるけれど、それらは自分の良心が痛まないようにする工夫でしかない。いつどこでどんな人が自分の目の前に現れるかは分からない。私たちは心の中にどんな人のための場所も用意しておく必要があるだろう(あるいは、せめてその努力くらいは)。

2021/01/27

 人間がじぶんに話しかけるというのはたしかなことである。およそ考える存在にして、そのことを体験しなかった者はいない。いや、こうだとさえ言える。言葉は、ある人間の内部で思考から良心に向かい、良心から思考にもどるときにしか、壮大な神秘にならないのだと。(…)ひとはじぶんに言い、じぶんに話し、じぶんのなかで声をあげるが、だからといって、外部の沈黙が破られるわけではない。そこにはたいへんな喧噪があり、わたしたちのなかでは口以外のすべてが話すのだ。魂の現実は、見ることもふれることもできないが、だからといって現実であることに変わりはないのである。
(ヴィクトール・ユゴー『レ・ミゼラブル』)

2021/01/26

 他人を赦すことができたらどんなにいいだろう? もう一生会うことはないからといって、すべてが終わったわけではないのである。自分の心の中でその人と和解するができれば、どんなに気持ちが安らかになることだろう? どうやったら生きていけるのか、どうすれば人から愛してもらえるか、これ以上いったい何をすればいいのかも分からず、苦しんできたような人間に対して(じっさい神様はこの一人の人間にこれ以上の何を求めているのだろう)、どうして私たちは憎しみを抱くことができるのだろうか? この行き場のない怒りはどうすればいいのか? 赦すと赦さないでゆれ動いているうちに、それはほとんど嘆きのようなものに変わっていき、ついには「どうか私に赦させてください」という懇願にまでなってしまう。しかし一方では、「この恨みは一生忘れてやるもんか」という声も聞こえないではない。私たちの中のいったい誰が何を言わせているのか? それを聞いている私たちにどうしろというのか?

2021/01/24

 おそらく僕は民主主義を愛する一人である。とはいっても、僕はそもそも民主主義が何であるかをよく分かっていないだろうし、この「民主主義」という言葉自体もあまりに使われ過ぎて陳腐になってしまっているから、別の言い方をした方がいいかもしれない。僕は「自分と意を同じくしない者との共生」について考える一人である。

 自分で築き上げた理屈にしたがって、あるいは世界観にしたがって、ほかの誰にも頼らず自分自身を支配することができたと思い込んでいる人間は、次のことに自覚的でなければならない。じっさいは自分自身を支配しているのではなく、他人を勝手気ままに支配しようとしているだけであるかもしれないことに、である。他者との共生を余儀なくされている人間が、自分で築き上げた理屈のみにしたがっていても許されるのは、自分一人きりの生活においてだけである。さみしさを克服しようとし、孤独であることを過剰に肯定してしまうのは、とても危険な考え違いである。

2021/01/23

 愛を実現するうえでおのれが小心であることにおののいていてはならぬし、たとえそのさいよからぬ行動があるとしても、さほどまで尻込みすることはない。あなたのはげみになるようなことを何も言えなくて残念じゃが、行動の愛というものは、空想の愛とはちがって、きびしく恐ろしいものじゃ。空想の愛はすぐさまかなえられる功業を渇望し、世人に認められることを求める。(…)けれど行動の愛は労働と忍耐でな、ある人にとっては、いわば大きな学問にもひとしいものかもしれぬ。
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)

2021/01/22

正しい人にある「負い目」

 僕がもっとも心からの尊敬を抱くのは、どこまでも正しく、善良で、寛容な人に対してである。たいていの人は、自分の受けたささいな被害をそこかしこで訴えてまわるが(僕もやはりその中の一人である)、正しい人は、どのような苦労も引き受ける、忘恩を気にとめることもない、しかもそれらを人知れずやってのける。そのような人には二種類ある。生命の危険にもほとんど動じない、静かで穏やかな思慮深い人と、小言を言いながらもすべてを許してさえいる、他人の世話をすることに喜びを感じる人である。そのような性質は、神様によってかもしれないし、あるいは単に偶然によってかもしれないが、とにかくその人に「与えられた」ものである。

 一方で、そのような性質を与えられなかった人も、正しい人と同じかそれ以上の尊敬に値する人であるかもしれない。一部の「恵まれている」人がいるためには、「恵まれていない」ことを引き受けなければならない、その他大勢が必要だからである。正しい人は恵まれていることによって、心の平安を享受しているが、そうではない人は恵まれていないことによって、神経質になっている頭をいつも持ち歩かなければいけない。地上にはたくさんの苦しみがあって、貧困から憎しみまでさまざまだけれど、悲しいかな、それらは人びとに平等に分け与えられるわけではない。だから正しい人とて、そうではない人に対して「負い目」があるとさえ言えるかもしれないのである。

2021/01/17

 このブログの文章の中で、何かしらの考えであるとか、感情、行ない、もしくは人間の性格について、悪いように書いたり、批判したり、ときには嫌悪してしまうといった際に、僕がもっとも参考にしているのは、他人のそれらではなく、自分のそれらである。じっさいどんな人間も、自分の心の中にある(もしくは共感を覚える)「悪しきもの」についてしか、あれこれ分析したり、批判したりすることはできないだろう。自分の中に一欠片もないものについては、ただ「分からない」としか言えないはずである。例えば、人殺しの心理について何か一言でも述べようとするなら、自分の中にも「人殺し」的なものがあることをまず認めなければならない。

2021/01/08

他人はいつも尊敬に値する

 他人を尊重しなくてはいけないし、また「いけない」というだけではなく 、他人はいつも尊敬に値するものである。それが分からない、実感できないというのは、それだけ未熟であるか、恵まれていないということである。世間一般の人びと(そういう人びとがいればの話だが)を見下し、他人となじめないことを自分の頭の良さだとか、恵まれた才能のせいにする人がたまにいる。そのような願望はとてもよく分かる。「自分」という存在を正当化するために、世間一般を見下してしまうわけである。しかしそういう人は、他人をはなから軽蔑しているという点で「世間一般の人びと」より劣ってさえいるかもしれないし、そうではないにしても「負い目」はあるのである。

 他人を軽蔑してしまうようなときには、そのような軽蔑が起こったまさにその瞬間から、考えを改めて反省をするよう、自分の心に言って聞かせる必要があるだろう。その他人がじっさいは人知れず苦しんでいるだとか、自分には想像もつかないほどの不幸を味わったことがあるかもしれないことに、気づいてしまってからではとても遅いのだ(どんな警察よりも良心の方がずっと恐ろしいのである)。そのような事実はつねに隠されているのかもしれない、いや、本当の苦悩というものはつねに他人には隠されているものなのだから。したがって、自分をのぞくすべての人間が、人知れず苦悩を抱え、不幸に黙って耐えている者なのである、とさえ想像してみなくてはならない。

 少し遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。

2020/12/25

信仰と政治の領域

 信仰はまったく個人的なものである。そのため信仰にとっては、法も警察も必要ないはずで、他者に介入することも他者の介入を受けることもない。あるのは自分の良心だけである。内にある良心が、外にあるどんな法や警察よりも厳しく、自分の心を問いつめるのである。「神による裁き」だとか、地獄とかいったものとはじっさい、この「良心の呵責」の物質的表現にほかならない(そのため、信仰を持たず、したがって良心もない人間にとっては、天国も地獄もないであろう)。

 信仰が個人的なものでなくなったとたん、それは信仰ではなく、政治の(もしくは戦争の)領域へと侵入していく。そこで問題となっているのは、自分ではない者との共生というだけではなく、自分と意を同じくしない者との共生である。あらゆる僭主的な試みはすべて、この「他者との共生」を放棄している。これはもはや神を仰いでいるのではなく、神と等しくなろうとしているのである(神を非難することと、自らを神と等しくした人間を非難することとは、とかく混同されがちである。だがじっさい、その二つはまったく異なるというだけでなく、反対のことでさえある)。

 政治の領域において、「複数のもの」が机にあるということがどれほど大事であるか、は歴史が教えてくれるだろう。知性、合理的な推論、計算によって考えられた政治体はどれも、「一つのもの」がすべてを決めるような具合であり、これはまるで人間が神であるかのようにふるまうことである。しかし当然のことだが、人間はだれも神ではないし、現実は理想のようには動いてくれない。政治の領域では、神を信じるということよりむしろ、人間はだれも神ではないということ(それでもこれは神を認めないことには始まらないように思う)を、その基礎としなければならない。

2020/12/23

 この世的な生と自己と欲望とに縛られている、神でもなければ聖人でもない僕たち人間にとっては、福音書におけるイエスの教えを書かれてあるとおり実践することなど、不可能である。しかしだからといって、その意義が失われてしまうということはまったくない。およそ人間が想像し得るかぎりにおいてもっとも善い意志と行ないとが、福音書には書かれてある、ただそれだけであまりに偉大なのだから(おそらくこれは、他のすべてのまっとうな聖典にも当てはまるものである)。実際のところ、それなくして、僕たちはどうやって善悪を知ることができるだろう? あるいは、殴られたら殴り返すことが「平等」であると考えてしまうような生き物が、平等に愛が分け与えられている状態というものを、どうやって理解することができるだろう? 知性や富を与えられた人間が、神ということなしに、どうやって自らの傲慢さを反省することができるだろう?

2020/12/22

 そもそも人間が生まれてくること、またそれとともに、生まれ出ずる存在のおかげで人間が行為しつつ現実化することのできる新たな始まりも生まれること、ここに「奇蹟」は存する。行為のこの面が完全に経験されている場合にのみ、「信仰と希望」といったようなものがはじめて存在しうるのである。(…)われわれはこの世で信頼をいだいてよいのだということ、そしてこの世に希望をもってよいのだということを、クリスマスのオラトリオが「よき知らせ」を宣べ伝えている次の言葉ほど、簡潔に美しく表現したものは、おそらくどこにもない。——「われわれに一人の子どもが生まれた」。
(ハンナ・アーレント『活動的生』)

2020/12/21

 神学、哲学、それから政治学にとても心惹かれている。大学を卒業するために必要なことは、物理学を理解していることの証明だけなのだが。これから先の人生において自分が何に力を注ぐべきなのか、それをずっと考えているのだけどまったく分からない。とりあえず逃げるように本を読んでいる。いまは『全体主義の起原』を読んでいる。とても面白い。

 父方の祖父母からクリスマスの手紙が届いた。その一枚目には、天使が羊飼いたちに「喜ばしきおとずれ」を告げるという、福音書のもっとも象徴的な箇所がそのまま引用されている。「こわがることはない。いまわたしは、民全体への大きな喜びのおとずれを、あなた達に伝えるのだから。実は今夜ダビデの町に、あなた達のために一人の救い主がお生まれになった。この方が救い主(キリスト)なる主である」(『ルカ』2・10−11。もっともこれは岩波文庫の訳だが)。

 バッハの(と言っていいのか分からないが)「メヌエット ト長調」をくり返し聴いている。静かだけれど喜びに満ちた感じがあり、とても気に入っている。この「静かだけれど、喜びに満ちている」というイメージを、さらには「われわれはこの世で信頼をいだいてよいのだということ、そしてこの世に希望をもってよいのだということ」を、頭につよく思い浮かべている。

2020/12/14

 人の行ないを赦す(なかったことにする)ことができるのは、その人の抱える苦悩を知るか、想像するかできる場合においてである。その人の抱える苦悩に頭を下げ、苦悩に免じて赦すのである。しかしそういった苦悩の多くは、悲しいことに、それを抱える本人にしか分からないため、僕たちはいついかなるときも人を赦せるというわけではない。これがたとえば、他者の経験および思考過程をそっくりそのまま自分の脳みそに移植できるとしたら、僕たちは、どんな人のどんな行ないをも積極的に赦したがるだろうし、さらには、自分の不寛容さと恵まれていることの方をむしろ責めるようになるのだろうが。

2020/12/13

 愛には相反する二つの種類がある。人を選びかつ気まぐれな「欲求としての愛」と、人を選ばずかつ持続的な「秩序づけられた愛」とがそれである。前者は「愛されよう、与えてもらおう」とする人間の欲求であり、後者は「愛そう、与えよう」とする神に由来する愛、すべての人びとへの永遠なる愛である。僕たちの抱く愛はそのどれもが、この二つの愛の混合なのであり、どちらか一方だけであることはない。

2020/12/12

 みんな好きに自由に生きたらいいと思います。そして迷ったとき、分からなくなったときだけ、自分はどうあるべきかを良心に照らし合わせ、勇敢になって、善いことの方へ進めばいいと思います! 良心とはすなわち、外から与えられる法律、道徳、教義ではない、内に見いだされる「人間の心に記された法」(アウグスティヌス『告白』第二巻四章・9)である。あるいは多分、このように言うこともできるだろう。「律法はモーセをもって与えられたが、良心はイエス・キリストをもってはじめてあらわれた」のだと。あと『カラマーゾフの兄弟』第六編「ロシアの修道僧」は本当にすばらしいので、そこだけでもぜひ読んでみてほしいです。

2020/12/08

 ナザレのイエスの驚くべきところは、通常の人間がていねいに思考を重ねれば、当然たどり着くであろう帰結とは、まったく反対のこと——それでいて一つも間違ってはいないこと——を、いともたやすく述べてしまうところである。右の頬を殴られたら左の頬を差し出す、九十九人の正しい人のためよりむしろ一人の罪人のために喜ぶ、一番偉い者がそうでない者たちに仕える、といったことを説くのである。このような教えは、ほとんど革命的とも言えるのであり、イエス以降、彼の教えと似たようなことを少しでも述べたければ、どうしてもイエスのことを引き合いに出さなければならないほどである。

2020/12/07

自己と他者との違い

「キリストの戒律のままに人間を自分自身と同じく愛すること——それは不可能である。地上における個としての人性の法則がわれわれを縛る。自我がさまたげとなる。ひとりキリストのみがよくなしえたが、しかしキリストは、太古から人間がそれをめざし、また自然の法則によってそれをめざさざるをえないでいる永遠の理想である」(ドストエフスキー)

 自己と他者とはまったく異なっている。「この自分」という存在と、それ以外のすべての存在との間には、とてつもなく大きな差がある。ここで、僕はいまどのような差をとくに問題にしたいのかというと、それは「扱い方」の差である。つまり、僕たちが「この自分」を扱うやり方と、他者を扱うやり方とは、あまりにも違いすぎているのである。この事実は、当たり前のように思えるかもしれないけれど、よくよく考えてみると、まったく当たり前のことではない。

 自己と他者とをまったく平等に扱うことのできる人間が、はたしているだろうか? 「自己」というものから脱し、あたかも自己と他者の頭上にいるかのような存在となって、自他を分けへだてなく愛することのできる人間が、はたしているだろうか? もちろん、すべてのまっとうな宗教的探究はそれを目指しているのだし、それにかなり近いところまでいった人間なら、いままでにも何人かいただろう。しかし、それも完全ではないはずだし、僕たちのような一般的な人間となれば、なおさら不可能である。

 それを不可能にしているものはいくつかあるけれど、その中でも一番分かりやすく、反論の余地のないものが一つある。肉体的な苦痛(それは死へと続いている)というものが、それである。殴られるだとか、ナイフで刺されるとか、飢餓状態になるとかいったことを想像してほしいが、これらの苦痛ほど、自己と他者とを分かつものは他にないのだ。苦痛を感じている自己は、それ以外との連絡を絶っているにも等しい。したがって僕たちは、それを恐れるあまり、誰かが餓死しなければいけないのであれば、自分が餓死することよりも、他人が餓死することの方を望んでしまう。そして実際、貧しい人びとのために全財産を寄付するようなことを、僕たちはしないのである。

 肉体的な苦痛というものを例にとったけれど、自己と他者とを分かつものは、もちろん他にもある。他人が選ばれて自分は選ばれなかっただとか、自分が持っていないものを他人が持っているだとか、自分が嫌悪する性質を他人が持っているだとか、具体例をあげればきりがない。以上のことから分かるように、僕たち(神ではない)人間は、自己というものにどうしようもなく縛りつけられている、不完全な存在なのである。僕たちはまずそのことを自覚しなければならないし、そういった基準で、つまり「どのくらい自己を扱うのとおなじように他者を扱うことができるか」といった尺度で、自分の気持ちと言葉と行ないとを評価し、そのつど省みなければいけないのである。

それぞれの区画

人びとは
それぞれの区画を与えられ
そこにある喜びと
それから
苦しみとを
受けとっている
私はあなたではないし
あなたも
彼らではない

感情は
水のかたまりのように
流れ 作用し 反作用する
となりの区画におしよせ
おしのけ ひき返す
おしよせ おしのけ
そのまたとなりへ
それから
遠くへ

そして 私は
この区画を与えられ
ここにある喜びと
それから
苦しみとを
受けとっている
感情は
水のかたまりのよう

あなたは
私のとなりの区画を与えられ
そこにある喜びと
それから
苦しみとを
受けとっている
感情はやはり
水のかたまりのよう

2020/12/05

 回心とはいったい何だろう? 徐々にではない、ある一つの瞬間を境にして、これまでの自分がいかに間違った考えにとらわれていたか、頭ではなく心の奥だけで理解し、良心の呵責にさいなまれるとともに、泣きながら大きな喜びを感じる、といった現象。家族、友人、知人と、これまで関わった人たちすべてを含む、世界中のすべての人びとに対して、感謝と懺悔と愛着の気持ちをおぼえる。ごくたまにある楽しいことをのぞけば、人生は苦しみの連続である、と信じて疑わなかった人間が、自分は幸せ者であると決めてかかり、いまこの瞬間から死ぬそのときまで、自分がどうあればいいかについての、確固たる指針を手に入れるのである。

2020/12/03

 そしてまさに、ユダヤ民族および他のいくつかの国の民族とともにこの地球上に生きることを望まない——あたかも君と君の上司が、この世界に誰が住み誰が住んではならないかを決定する権利を持っているかのように——政策を君が支持し実行したからこそ、何ぴとからも、すなわち人類に属する何ものからも、君とともにこの地球上に生きたいと願うことは期待し得ないとわれわれは思う。これが君が絞首されねばならぬ理由、しかもその唯一の理由である。
(ハンナ・アーレント『エルサレムのアイヒマン』)

2020/12/02

 私語厳禁の名曲喫茶が大好きで、そこでは、大音量のクラシックがかかっている店内に居座りながら、ものをじっくり考えることも、本を読むことも、文章を書くこともできるし、そして何と言っても、その場所では、いっさいものを考えず、ひたすら静かにしていることができる。「考えること、いや考えることでさえなく、ただ黙って一人になること(To be silent; to be alone)。(…)そこには自由があり平穏さがあって、さらに歓迎すべきことに、何かすべてを一つにまとめあげる力、安心感に支えられたくつろぎにも似た気分が感じられた」。店内にどれだけ多くの人がいようが、そして顔見知りがいようが、そこには、自分の家よりもはるかに私的な——あるいは内面的な、したがって一人きりの——空間がある。

2020/12/01

 そのとたん、私はすっかりうろたえて、度を失ってしまったが、それでも私たちは馬車に乗るために外へ出た。「ちょっと待ってくれないか」と私は彼に言った。「すぐ戻るよ、財布を忘れたんだ」そう言って私は一人で家にとって返すと、まっすぐアファナーシイの部屋へ入って行った。「アファナーシイ、ぼくはきのうおまえの顔を二度も殴った、どうかぼくを赦してくれ」私が言うと、彼は、おびえきったようにびくりと身震いして、私の顔を見つめている。私はこれではまだまだ足りないと見てとると、いきなり、肩章のついた軍服を着たままで、彼の足もとにがばと身を投げ、額を床にこすりつけ、「ぼくを赦してくれ!」と言った。これにはさすがに彼も茫然となって、「中尉殿、旦那さま、いったいこれは……勿体のうございます……」そう言うと、ふいに自分も、さきほど私がしたように、両手で顔を覆っておいおい泣きだしてしまった。そして、つと窓のほうに顔をそむけると、あふれる涙にはげしく全身をうち震わせた。一方、私は同僚のもとへ駆け戻り、馬車に飛び乗ると、「やってくれ」と叫んだ。そして、「どうだ、勝利者を見たかい、きみの前にいるのがその勝利者だぜ!」と言ってやった。
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)

2020/11/30

 何かをするということ、つまり行為というものは、それがなんであれ、それをする人の勇気を必要とする。なぜなら行為は、それをする前には、それがどのような結果を引き起こすか、ほとんど予測がつかない上に、取り返しもつかないからである。そのため行為には、そのリスクをわが身に引き受けるということが含まれているのであり、それを進んでしようと思う者がいなければ、この世界ではまさしく何も起こらない。そのため、受動的にしかことを為さない人は、積極的にことを為す人に——それが引き起こす結果がなんであれ——負うている部分があるのである。また、行為をした人を赦し、起こってしまったことの埋め合わせをみんなでしよう、と考える力のない場所にあっては、行為をする者はいなくなってしまう。

2020/11/29

 年老いた乳母が彼の部屋へ入って行く。「ごめんくださいまし、お坊ちゃま、聖像の前にお灯明をあげさせていただけましょうか」以前だったらそんなことを許すどころか、吹き消してさえいた兄が、こんなふうに言いはじめる。「どうぞ、あげておくれ、灯しておくれ、以前はおまえたちのすることをやめさせたりして、ほんとうに罰当りなことをしたねえ。おまえがお灯明をあげながらお祈りをすれば、ぼくはそのおまえの姿に喜びをおぼえながらお祈りをしよう。そうすれば、二人がおなじ神さまにお祈りをすることになる」
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)

2020/11/28

 考えなければならないこと、解決しなければならない問題なら、もちろん無数にあるのだけど、その中でもとりわけ重要なこと、すなわち、まずそこから始めなければならないような、あらゆるものに先立つ第一の問題とは、いったい何だろうか? そう問われれば、おそらく、それは善悪の問題である、と答えるほかないように思う。神様はいるのかいないのか、いるのであればそれはどういった神様か、といった問題は、現代の僕たちにはあまりにもなじみが薄い。しかし、善悪ということならまだ真剣に扱われているし、そんなものを考える必要はない、と断言するわけにもいかなくなってくる。なぜなら、もし「善悪などない」ということになってしまえば、悲しいかな、僕たちに残されているものは、単なる「個人の欲求」であるとか、せいぜい「一部の人間にとっての利害」といったものでしかないだろうが、そんなのは容易に認められる事態ではないからである。

2020/11/20

悲しみを物語ること

 僕たちは、自分の心の中がどうなっているのかについて、できるだけ公平でなくてはならない。もし仮に、あなたが世界中を敵に回すと心に決めたとして、この世界がいかに愛するに値しないかについて頭を使うのであれば、それと同時に、あなたはあなた自身についても深く考えてみる必要があるのである。なぜなら、僕たちはどんなときでも、「自分」ということを度外視してものを考えたり、意見を主張したりすることはできないからである。実際そこには自分の利害が絡んでいるだろうし、あるいは、考えたくもないような劣等感だとか、自尊心の問題が含まれていたりもするだろう(「考えない方がいい」と言ってしまいたくなるほど、それは恐ろしい領域である)。もしくは育った環境だとか、出会った人だとか、そういった具体的な体験が影響していることもある。このように、僕たちが日々考えたり感じたりすることには、必ずそれなりの動機があるのである。

 しかし、心の中のそれらをすべて考え、吟味することは、途方もなく苦しい作業である。たぶん自分一人ではできないことだろう。そういった諸々の考えや可能性について、辛抱強く耳を傾けてくれる他者を必要とする。憎しみや悲しみと、それが起こった原因についての一連の物語を、丁寧に聴いてくれる存在を必要とする。「どんな悲しみも、それを物語にするか、それについての物語を語れば、耐えられるようになる」(イサク・ディネセンという人の言葉。『活動的生』からの引用)とあるように。そしてあなた自身も、誰か他の人にとってのそういった存在でなくてはならないし、そうした営みをこそ大事にしなくてはならない。そうしてはじめて、人間は「人びとのあいだにとどまること」ができるのだから。また、それこそが、精神的な意味において「生きている」ということの本質なのであり、自分の心の中について公平でなくてはならないことの理由である。

2020/11/19

 言葉ではどうとでも言えてしまうものだ。言葉を使えば、どんなに空疎なことでも、醜悪なことでも、それらしく言えてしまうものである。見当ちがいなことを延々とくり返して、人を迷い込ませることもできるし、自分という存在を、何かの権威であるかのように、周囲に思い込ませることもできる。混沌としたものに美しいラベルを貼って、売り歩くことができる。どこまでも賢く、偉大であるにも関わらず、そういったことのために言葉を費やした哲学者が、これまでにも少なからずいたのである。そういった人たちが、どれくらい自分のそうした性質を理解していたのか、それは分からない。まったく理解せず、意図せず、そのようになったのかもしれない。また、この僕自身、そういった傾向をまったく持っていないなどと、断言できるとも思わない。

2020/11/17

 これでやっと誰に対しても気を遣わなくてすむ。一人になって、わたし自身に戻れる。そしてそれは、最近しばしば彼女がその必要を感じることだった——考えること、いや考えることでさえなく、ただ黙って一人になること。すると日頃の自分のあり方や行動、きらきら輝き、響き合いながら広がっていたすべてのものが、ゆっくり姿を消していく。やがて厳かな感じとともに、自分が本来の自分に帰っていくような、他人には見えない楔形をした暗闇(ダークネス)の芯になるような、そんな気がする。(…)そこには自由があり平穏さがあって、さらに歓迎すべきことに、何かすべてを一つにまとめあげる力、安心感に支えられたくつろぎにも似た気分が感じられた。わたしの体験では(ここで夫人は編針を器用に動かした)、黒い楔形にならず普段の自分でいる限り、安らぎなどは見出しようがない。日頃の自分を脱ぎ捨ててこそ、苛立ち、焦り、心の動揺などがかき消えていく。そしてこの平穏さ、この休息、この永遠の時間のただ中で、さまざまの事が一つに重なり合うとき、夫人の口許には、われ知らず、人生に対する勝利を謳う声が浮かんでくるのだった。それから気持ちを落ち着かせ、灯台の光、あの三度目に放たれる長くしっかりとした光の一投(ストローク)を迎え入れるべく、静かに目を上げた。あれはわたしの光だ。
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』)

2020/11/15

 あなたの尊敬している人物が、あなたを受け容れ、愛していると同時に、あなたが軽蔑している他の人間のことをも、あなたを愛するのとまったくおなじように受け容れ、愛しているといった場合について考えてみる。その後のあなたの反応は、次の二通り。

 ① あなたは尊敬している人物について、軽蔑に値するはずのあんなやつをも愛してしまうのであれば、自分を愛してくれていることにも特別な根拠はないのだろう、と思うようになる。そして、そのことによって悩み、苦しみ、考え込み、ついには幻滅さえしてしまう。どうしてあの人のことを尊敬していたのだろう、自分には見る目がなかったのだろうか、と。

 ② あなたは軽蔑している人間について、自分の尊敬するあの人が受け容れ、愛しているとなれば、実際はそれほど悪いやつではないのかもしれない、と思うようになる。そして、その人のことを徐々に受け容れるようになり、ついにはすっかり愛してしまう。それはまるで、尊敬している人物の愛を媒介として、その人物の傘にいる人たちみんなを無条件に愛してしまうかのようである。

 これらの現象について、あまり上手に書くことができないのが、とても残念である。すっとばして結論じみたことを述べてしまうと、このようになる。あらゆる人間を愛する人物のことを心から尊敬していれば、その人物の愛を媒介として、僕もあらゆる人間を心から愛することができるようになるだろうということ、さらには、自分を心から尊敬してくれる人がもしいるとすれば、僕は、その尊敬の気持ちを、その人があらゆる人間を心から愛するようになることのために使いたいということ、これである。

2020/11/13

 小学生の頃のことは、かなり鮮明に覚えている。当時の自分がいまの自分とおなじ人間であるとは、とうてい思えないのだけど。住んでいる世界もまったく違っていたような気がする。
 大人たちが整えてくれた箱庭(のようなもの)の中で子供はすくすくと育っていく、というイメージが僕にはあり、自分の幼少期もそういったものとして回想することができる。箱庭の外に何があるのかなんて当時はまったく知らなかったし、自分が箱庭の中にいるのだということすら、まったく分かっていなかった……


 泣くんだ 赤ちゃん 泣くんだよ
 おかあさんを嘆かせてやるんだ
 扱い方は十分心得ているから大丈夫さ

 マリーゴールドの王様は台所で
 女王様の朝食の仕度をしている
 女王様は居間で
 王様の子供たちのためにピアノを弾いている

 泣くんだ 赤ちゃん 泣くんだよ
 おかあさんを困らせてやるんだ
 扱い方は十分心得ているから大丈夫さ
 だから泣くんだ 赤ちゃん 泣くんだよ

 ……………………

 元いたところに私を戻してくれる?
 お願いだから
 元いたところに私を戻してほしいの
 ブラザー 私を戻して
——ビートルズ「クライ・ベイビー・クライ


 そして唇でジェイムズの髪に優しく触れながら、この子も今ほど幸福に感じることは二度とあるまい、と思いかけたが、そういう言い方に以前夫が腹を立てたことを想い出して急いで止めた。それでも真実は真実だ。これから先、子どもたちが今以上に幸福になることは、やはりないだろう。今のキャムなら十ペンスのお茶セットがあるだけで、何日でも幸せでいられるのに。朝起きるとすぐ、子どもたちが頭上の床を踏み鳴らし、歓声をあげるのが聞こえてくる。そして廊下を勢いよく走る音がしたと思うと、急にドアが開いて、バラのように瑞々しく、もうすっかり目を覚ました子どもたちが、一斉になだれ込む。まるで、朝食後の食堂に入るという、毎日繰り返している何でもないことが、子どもたちにとっては一大イベントででもあるかのように。(…)それで階下に戻った折りについ夫に向かって、なぜあの子たちは大きくなってすべてをなくす必要があるのかしら、今が一番幸せなのに、などと言ってしまう。すると夫は怒りだし、なぜそんな暗い見方しかしないのか、もっと分別を持たなきゃ、と言う。
——ヴァージニア・ウルフ「灯台へ」


 いいですか、これからの人生にとっては、何かの美しい思い出、なかでも子供のころ、両親の家で過しているころに胸に刻まれた思い出こそが、何よりも尊い、力強い、健康な、有益なものになるのです、それ以上のものはありません。きみたちは教育についていろいろ聞かされるでしょう、けれど、子供のころから持ちつづけられる、何かすばらしく美しい、神聖な思い出、それこそが、おそらく、何よりもすばらしい教育なのです。もしそのような思い出をたくさん身につけて人生に踏み出せるなら、その人は一生を通じて救われるでしょう。そして、そういう美しい思い出がぼくたちの心にはたった一つしか残らなくなるとしても、それでもいつかはそれがぼくたちの救いに役立つのです。
——ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」

2020/11/07

活動的なもの(人に優しくすること)↔ 観想的なもの(優しい気持ち

「さてみなが旅行をつづけるうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が家にお迎えした。マルタにマリヤという妹があった。マリヤは主の足もとに坐ってお話を聞いていた。するといろいろな御馳走の準備で天手古舞をしていたマルタは、すすみ寄って言った、「主よ、妹がわたしだけに御馳走のことをさせているのを、黙って御覧になっているのですか。手伝うように言いつけてください。」主が答えられた、「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を配り、心をつかっているが、無くてはならないものはただ一つである。マリヤは善い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」」(『ルカ福音書』10・38−42。マルタさんが少しかわいそうとは思うのだが……

2020/11/05

「愛と思いやりをもって独裁者の心を和らげることこそが、最も世界を救うと信じています」(ここからの抜き書き)

おびえて

動悸がはじまる
あたりは闇につつまれて……
耳鳴りがする
いったい何が起きたのか
わからない
だいじょうぶだ
私は落ちついている
じゅうぶんやっていける
しかし
それにしても……
いったい何が起きたのか
わからない
幻想をいだいていたのかしら?
それがいま
押しつぶされてしまったの?
心臓がすこし縮んだみたい
筋肉がこわばって
私という
存在が
地面をはなれ
じたばたしている……
だいじょうぶだ
私は落ちついている
じゅうぶんやっていける
しかし
それにしても……
いったい何が起きたのか
わからない
それから
だれに電話をかけたらいいのか——

2020/11/03

 人びとがいなければ、他者がいなければ、僕は決して生きていくことができない。たとえ完璧な人間になれたとして、どこまでも賢く、美しく、善い人間になることができたとして、そういった完全な一個人になることができたとして、はたしてそれがなんだろう? それでもやはり人間はどういうわけか、一人きりでは生きていけないのだから! 何かしら意味のあるものを与えてくれるとしたら、この自分では決してなく、自分以外の人びとなのだから! そういった事実にぶち当たるとき、一時的ではあるにせよ、冷静さの欠いた激しい感情ではあるにせよ、それでも確固たる気持ちで、この自分という存在は他の誰よりも低い者であるし、また、実際そうであるだけでなく、むしろ喜んでそうありたい!と考えてしまうのは、何もおかしなことではない……

2020/11/01

 僕はかつて平気で人を傷つけ、どういうわけか、それを当然の権利であると考えていた。いま僕は切実に善い人間でありたいと望んでいるし、いくらかはすでにそうであると信じたいけれど、もし、かつて傷つけた人にたまたま街中で会ったりしようものなら、僕は後ろめたさのあまり逃げ出してしまうかもしれない。どのくらいの謝罪をし、どのくらいの埋め合わせをしたら許してもらえるか分からず、それが怖いのである。それなのにこの場合、どちらかと言えば怖がっているのは僕ではなく(そんなことがあってはならないのだけど、おそらく)相手の方がもっと僕を怖がっているのかもしれないのだ。これほどの卑劣さはもはやあり得ないと思うが、事実、そのように僕が仕向けたのだし、そういった行いが当然であると考えていた過去の自分が恥ずかしい、そしてときには、痛ましくをさえ思う。

 他の人はどうか知らないし、そのままでいてくれてまったく構わないが、僕だけは(この自分だけは!)どんな人も傷つけることのないよう、可能なかぎり細心の注意をはらい、一秒一秒を生きていかなければならない。他人の良し悪しについての自分の意見を信じず、こんなやつはどう思おうがかまわない、とささやく声には耳を傾けないようにして。もちろん、そういった穏やかな心持ちにも限界はあるし、また、どんなに気をつけていても、知らず知らずのうちに人を傷つけてしまうということもある。しかし、だからこそ、僕は謙虚さを捨てないようにしようと思えるのだし、ときには反省的になることもできるのだ。そして、まさにそういったことの積み重ねによって、僕という人間が向上していくのである。このような考えに至ったいま、迷うことなくこの道を進むつもりである。

2020/10/24

 ビートルズの『ザ・ビートルズ』(通称『ホワイト・アルバム』)が、僕はとても好きです。このアルバムはどういうわけか、聴く人に「喜び!」という印象を与えてくれます。喜びという感情さえあれば、苦しいときも結構やっていけるものです。「喜びなしに生きていくことはできない」。楽しみは一時的なものかもしれないけれど、喜びならいくぶん長く続いたりもします。「いいことがあった!」「良い知らせ(英語では good news)があった!」。知っている人が結婚するとか、一人の子供が生まれたとか、そういうときとおなじ気持ち(いずれも経験がないため、僕はよく分かっていないのだけど)。「いえ、あなた、はじめて赤ちゃんの笑顔を見た母親の喜びっていうものは、罪びとが心の底からお祈りするのを天上からごらんになった神さまの喜びと、まったく同じことなんでして」(『白痴』のムイシュキン公爵が出会った「乳呑児をかかえたひとりの百姓女」の言葉)。

2020/10/19

「ぼくがこんなことを言うのは、万一ぼくたちが悪い人間になるときのことを思ってなんです」とアリョーシャはつづけた。「でも、どうしてぼくたちが悪い人間になる必要があるでしょう、そうじゃありませんか、みなさん? 何よりもまず、善良に、それから誠実にありつづけようじゃありませんか、そしてそれから、けっしてお互いを忘れないようにしましょう。(…)」
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)

2020/10/17

 自分の中にある「ある特定の人たち」に対する憎しみを正当化することは、それが何であれ、間違ったことである。憎しみを正当化し、おなじような憎しみを持っている人たちと共有し、連帯し、その憎しみをさらに大きくさせることは、間違ったことである。人びとの中にあるそういった憎しみを、人びとを連帯させるために利用することは、間違ったことである。

2020/10/14

「良い原因」であろうとする!

 僕たちはみな、これまで出会った人の多くが親切であれば、人間本性は親切なものだと信じることができるし、他者に心を開くことも、人に親切にすることもできる。一方で、これまで出会った人の多くが冷淡であれば、人間本性は冷淡なものであると信じてしまい、他者におびえるようになり、うまく心を開くことができず、また、人に親切にしてやる必要もないと感じるようになる。

 これまで出会った人のふるまいの総体が、僕たち一人ひとりの人間観を決めているのであり、それは、頭でどうこう考えて獲得するものではなく、一人ひとりの心のなかで、おのずと心理的に決められてしまうものなのだ。そのため、ある人が冷淡な人間であるからといって、その人自身にその原因(=責任)があるわけでは、まったくない。むしろその人は、心の奥深くでおびえている人、身に覚えのない不幸に苦しんでいる人である。しかもそれが誰のせいなのかといえば、僕たちみんなのせい、世界中の人びとすべてのせいなのである。すべての人びとが、まったくおなじ分だけ、その責任を負わなければならない。赦しを乞うべきはその人ではなく、僕たちの方である。

 人間はどうしようもなく連鎖しあって生きている。そのため、かつて僕がはたらいた悪事の影響は、僕自身におよぶのではなく、僕の知らない遠くの人たちの生活におよぶ。顔も知らない誰かを人間不信にさせ、誰かと誰かが仲違いしてしまうことに、僕は加担しているということである。もしこの世界がそういったもの、原因から結果への絶え間ないくり返しで成り立っているもの、であるとしたら、一人ひとりのするべきことは、できるだけ「良い原因」であろうとすることでしか、もはやありえない(できるだけでいい!)。報復主義の考え——これはまったく自然な感情でもあるのだが——ではなく、「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」。冷淡な人にこそ、親切さで報いなければならない。

 イエス・キリストは、その「良い原因」の最たるものとして、神からつかわされ、地上にやってきたとされている。このナザレのイエスが、本当に神の子であったかどうか、僕には知るよしもない。しかし、これだけは言える。イエスが語ったいくつかの言葉よりも、いっそう真実で、善良で、シンプルでもある言葉を、ほかの誰が言いえただろうか? おそらく、過去、現在、未来におけるどんな人間も、そんなことはできなかっただろう。とてもシンプルで、誰にでも理解できる言葉であるのに、誰も思いつきはしなかっただろう。なぜならイエスは、通常の人間がていねいに思考を重ねれば、当然たどり着くであろう帰結とは、まったく反対のこと——それでいて一つも間違ってはいないこと——を、述べてしまったからである。それは例えば、次のようなものである。

「あなた達のうちのだれかが羊を百匹持っていて、その一匹がいなくなったとき、その人は九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を、見つけ出すまではさがし歩くのではないだろうか。そして見つけると、喜んで肩にのせて家にかえり、友人や近所の人たちを呼びあつめてこう言うにちがいない、『一しょに喜んでください。いなくなっていたわたしの羊が見つかったから』と。わたしは言う、このように、一人の罪人が悔改めると、悔改める必要のない九十九人の正しい人[のため]以上の喜びが、天にあるのである。」(『ルカ福音書』15・4−7)

2020/10/13

 どんなに賢い人間も、どんなに善良な人間も、その人が——神ではなく——人間であるかぎり、かならずどこかで間違いを犯すということ。政治が立脚するべきは、ただその一点のみなのである。ここで言うところの政治とは、複数の人間が集まる場所であれば、かならず生まれる営みのことであり、そこには、第一に「価値の問題」が、第二には「お金の問題」が含まれていることだろう。全人類がそこに住むことを余儀なくされている地球のどこかに、自分専用の場所を確保し、ただ一人きりの生活をおくろう、などと考え、実行できる人間は、ほんの少ししかいない。

2020/10/12

 人が他者に対して抱いてしまう、あらゆるマイナスの感情はすべて——怒り、憎しみ、軽蔑、優越感といったものはすべて——、初めからその感情であったのではなく、人間そのものに対する怯えの感情から、生じているものである。つまり、人間不信であることが原因となって、あらゆるマイナスの感情が生まれてしまうのである。人が他者を傷つけてしまうのは、その人の人間不信による結果であるし、人が他者に傷ついてしまうのもまた、その人の人間不信から生じる不幸なのである。人は「傷つきたくない」という怯えのために、人を傷つけてしまうのだ。

 戦争についてもまったく同じことが言える。人は「殺されたくない」という怯えのために、人を殺してしまうのだ。つまり、戦争の本質というものは、「パンが足りない」という点にあるのではおそらくなく、信仰の違いによるものでもやはりなく、まさに、人間どうしが互いに怯えあっている、という点にあるのである(ただし、ここで言う「パン」とはもちろん、食料一般のことを指している。人間が人間的であるよりもまず、人間は生物である、ということが理由で、必要となるもののことである)。

2020/10/11

 人と接するときには、相手のなかにある良い感情を引き出すことができるよう、つねに心がけなくてはならない。善い人間とは、その人が独立した善さを持っているというわけではまったくなく、その人の周囲の人びとも一緒になって善い人間となってしまうがゆえに、善いのである。

内側に隠れるものについての考察

 目に見えるもの、活動的なもの、外側に現れるものよりもまず、目には見えないもの、観想的なもの、内側に隠れるものの方にこそ、いっそう心を傾け、取り組まなければならない。前者は、後者があってはじめて、何かしらの意味を持ちうるからである。この二つの対比は、ヨハネ福音書における、「律法はモーセをもって与えられたが、恩恵と真理とはイエス・キリストをもってはじめてあらわれた」という箇所に、特にはっきりと言い表されている。折にふれてイエスが、自身とモーセとの違いについて述べるとき、話の中心となっているのは、つねにこの二つの違いについてなのである。

 このことは、善行と善意の関係について考えてみるとき、よりはっきりと理解できる。善行は、それ自体に意味があるのではなく、それがまさしく善意から生じるからこそ、何かしらの意味を持ちうるのだ、というのがそれである。こういった善意とは、「見られ注目されることには耐えられないのであり、それは、相手が見る場合でも、善行をなす人自身が見る場合でも、そうである」。だからこそイエスは、「あなたは施(ほどこ)しをするときに、右の手のすることを左に悟られてはならない。これは施しを隠しておくためである」と言った。「見られ注目される」ための善行は、偽善におちいってしまうのである。

 このように、また、この他の例にも当てはまることとして、とりわけ重要なのは、外側からことを始めて中身がともなわない場合、それは偽物となってしまう、という点である。そのため、愛し合う者どうしにとって重視されるべきは、彼ら/彼女らの精神的な結びつきの方であって、愛を証明してくれる何か、では決してない。あるいは、他者を愛するというとき、僕たちは、その人についての紹介文を見ているのではないし、その人が自分に与えてくれる体裁を気に入っているのでもない。その人と自分との間だけで交わされる、お互いがまさに「(何ではなく)誰であるか」という、目に見えないものにのみ、関心を寄せているのである。

2020/10/07

 神秘的なことばかり書いているけれど、現実的なことについても述べておきたい。だけどそれは、きれいごとではないどころか、どこまでも過酷なものであるかもしれない。現実というものはときどき、どこまでも過酷なものであるから。

 さて、僕の考える現実とはこうである。——人が自分のために行う努力は、そのすべてが、どういうわけか、まったくもって意味のないもの(せいぜい「薄汚れた幸福」くらいのもの)にしかならないということ、これである。不幸におちいっている人が、自分自身の力によって自分を助けることは、まったく不可能なのである。したがって、助けてくれる人がいなければ、その人は、決して不幸から脱することができない。もし仮に、表向き、自分の力で脱することができたように見えても、精神的にはまったく不幸のままなのである。

 ある人の生き死にを決めるのは、その人自身ではなく、その人をのぞく全人類である。反対に僕たちは、一人ひとりが、自分をのぞく全人類の命綱を、少しずつ握っているのである。何かに向けて努力するとき、それが他者のためにではなく、自分のためになされたものであったなら、その努力は、誰にも何ものももたらすことがない。

2020/10/04

人間が持つべき謙虚さ

 旧約聖書によれば、大人は「知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、《神のごとく》になった」。まさにそのことが原因で、人間は楽園を追放され、地上に縛りつけられる存在となったのである。こういった人間の(あるいは大人の)傲慢さ、神か何かであるかのようにふるまうことの思い上がり、については、その他、バベルの塔の寓話のなかにもよく表されている。

 人の良し悪しを判断するだとか、自分は誰かよりも優れた考えを持っている、という態度のなかには、たとえそれがほんの少しであれ、また、その対象が誰であれ、思い上がり、傲慢さといったものが含まれてしまう。僕たち人間は誰も神ではないのだから、そういった判断はすべて控えなくてはならないところなのだ。ソクラテスが考えたように「誰も知者ではありえない」し、イエスが教えたように「神様お一人を除いて、誰も善人ではない」のである。

 これと似たようなことは、福音書にもはっきりと書かれてある。「人を裁くな、自分が神に裁かれないためである。人を裁く裁きで、あなた達も裁かれ、人を量る量りで、あなた達も量られるからである」(『マタイ福音書』7・1−2)と。

 しかし、実際には、こういった傲慢さを一つ残らず取り除くことは不可能である(そこでもやはり「誰も善人ではありえない」というわけである)。だがそれでも、せめて今より少しだけでも謙虚であろう、自己批判を忘れないようにしよう、と意識することはできるし、また、そうするべきであると僕は思う。

2020/10/01

 僕がまったく個人的に想像し、勝手に思いを寄せている神様というのは、他でもない、一人残らず「すべての人びと」のためにある神様である。だからそれは、ある国家のためではないし、民族のためではないし、特定の階級のためではない。誰か一人のためではないし、大多数のためでもなければ、少数の人びとのためでも当然ない。誰かが選んだ人たちのためではないし、僕が選んだ人たちのためでもないし、ましてや、自分ひとりのためでは断じてない。それはもちろん、あの「キリスト」という名のもとに、あらゆる悪事や迫害をしてきた人たちの仕える、悪魔的な形相をした何かでも決してない。この「すべての人びと」のための神様は、僕の少ない脳みそで考え得るかぎりにおいて、他のどんな存在よりも優れているから、これよりも劣った何かを進んで信仰しようという気には、どうしてもなれないほどである。

2020/09/24

 考えるとは、「少しのことを与えられ、そこから多くのことを理解しよう」とする営みのことである、あるいは、「多くのことを与えられ、それらを説明する少しのことを見つけよう」とする営みのことである。そしてもし「一つのことを与えられ、そこからこの世のすべてを理解する」ことができてしまうような、その「一つのこと」というのが存在するのであれば、それがまさしく真理であり、神であり、最初の光といったところだろう。もちろん、そんなものはこの世のものではなく、あの世のものである(ここにきてかなり神秘主義的な文章を書いてしまった)。

人間の孤立について→

2020/09/22

人びとの憎悪が増幅されていく

 世の中にあふれている「ある特定の人たち」に対する嫌悪や憎悪といったものを、あの手この手たくみに言葉を使って、せっせと理屈をこねて、さらっと正当化してしまう賢い人たち、というのは一番危険な存在である。そういった人たちは、直接的に暴力をふるったり、感情に任せて人を侮辱したりする人たちよりも、はるかに大きな影響力を持ってしまうという点で、いっそうたちが悪い。

 そういった人たちがしていることは、人びとの中に眠っている、本来ならば自制しなければならない恥ずべき憎悪を、外に放ち、公然と「特定の人たち」を憎悪してもいいという風潮(まずはネット上で、次第に人との会話で、さらにはヘイトスピーチで)を助長することである。しかもそれが、世間にこびを売るためであったり、自分は優れた存在であるということを宣伝したりするための、どこまでも利己的な動機によるものなのだからおぞましい。そして憎悪は、まるで「赤信号みんなで渡れば怖くない」といった具合に、その醜悪さが人びとにあまり意識されることなく加速していくのだ。

 それは、暗い時代の、悪い政治体制で行われてきたことと、その規模は違えど、まったく同じことである。「特定の人たち」に対する人びとの憎悪を、それを正当化することにより、雪だるま式に増幅させているのだ。その延長線上にあるのは「集団的な迫害」である。自らの醜悪さと残酷さに人びとが気づいたときには、もう何もかもが手遅れになってしまっていることだろう。どこから自分たちは間違っていたのだろう、と。

 そこで僕たちは、そういった危険な言説を耳にするとき、まず以下の点に気をつけなければならない。第一に、言葉ではどうとでも言えてしまうもので、間違ったことでも正当化してしまうことができる。第二に、人間はその欲求として、自分の中にある負の感情を正当化してくれる言説には、それがたとえ見かけ上しか正しくないとしても、喜んでまっすぐに飛びついてしまうものだ(なぜなら、これでもうこれまで抑えてきた憎悪を外に放ってもいい、自分の感情は良くないものであれ間違ってはいないし、間違っていないとなると良心の呵責を感じる必要もない! というわけであるから)。

2020/09/20

精神的な生存のために

 ある人がどういう人間であるか、誰であるかは、その人の年齢や性別によって分かるのではないし、その人の趣味や経歴によって決められるのでもない。それは、その人がどのようなふるまいで何を話すか、どんな表情をしているか、どんな行動を起こすか、などによって決められる。つまり、目の前にいるその人が「何を話し、何をするか」である。

 このように、僕たちは人前で「(能動的に)何かを話し、何かをする」ことによってのみ、他者に自分が誰であるかを知ってもらうことができる。もし仮に、どこで誰と会っても「(受動的にしか)何も話さず、何もしない」という人がいるとすれば、その人は、肉体的には生きていると言うことができても、精神的にはまったく死んでいるも同然である。なぜなら、生きているとは「人びとのあいだにとどまること」であるからだし、「人はパンだけで生きるものではない」からだ。

 そのため、「お腹が空いているときに何か食べたい」ということと、「寂しいときに人と会って何か話したい」ということとは、どちらも、「生きていたい」という人間本来の欲求にもとづいている。前者が肉体的なものであるのに対し、後者は精神的なものである、という違いがあるだけで、人間が「生きている」状態でいるためには、そのどちらの生も必要なのである。

 この後者の「精神的に生きている」ということの必要性は、現代の多くの人びとにとって、あまり真剣に考えられてはいない。それは、個人が人生設計をするにあたってもそうだし、国家が政治を行うにしてもそうである。また、この「精神的に生きている」ということは、その性質上、人間ひとりだけでは成立しない。したがって、目の前にいる人の精神的な生存は、この自分にかかっているのであって、その人自身ではないのである。

2020/09/19

 権力あるいは暴力は、人目につきやすく、そのくせ人間ひとりを支配することすら容易ではない。しかしその一方で、愛の謙虚さは、誰からも気づかれなくとも、他のどんな強い力よりもはるかに強く他者に影響を与えてしまうことができる。そういった謙虚さは、その性質上、どこまでも人目につかないことを望んでいるが、それと同時に、自らの影響力をちゃんと知ってもいるのである。

「愛の謙虚さは恐ろしい力である。すべての強い力の中でも、これにならぶものは何一つないほど、強い力なのだ」と考えるとき、その思想の中にはひそかな情熱があるし、全世界を征服しようというかくれた野心すらある。こういった博愛精神は、「年寄りにありがちな優しさ」なんてものでは決してない。それは、せっかく生まれてきたのだから、人生をすべて味わい尽くしてやろう、と渇望する若者をも満足させるものである。

2020/09/14

 あなたを傷つけ、人間不信にさせた人を憎まず、どうか赦してあげてください! その人は、あなたよりも深刻な人間不信におちいっている、誰よりも不幸な人間であるかもしれない(いや、きっとそうである)のだから。そしてよくよく考えてみれば、その人を不幸にさせたのはこの僕であるかもしれないし、仮にそうではないにしても、誰か他の人を不幸にさせることには加担しているだろうから、結局のところ、僕がその人を不幸にさせ、僕がその人にあなたを傷つけさせたのと同じようなものである(僕はふざけているわけでも、一時的な激しい感情にかられているわけでもない)。

2020/09/11

 打ちひしがれていて、気が遠くなるほど神経が衰弱している、というときがある。それでもバイトなり何なりで外出しなければいけないときは、まるで自分の葬式にでも出かけるみたいな(これは自分で考えた比喩ではないのだが)顔で、自転車をこいだり、あるいは電車に乗ったりする。その最中も、どうにかして、散り散りになってしまいそうな精神をまとめ上げる努力をする。ときには、実際には思ってもいない侮辱を自分に浴びせてみたりして、むりやり憂鬱を晴らそうとする(僕みたいな人間は死んでしまった方がいい、とか、それと似たようなことを)。そして、心の中であれこれ自問する。——どうすればいいだろう、神聖なものを思い浮かべることに何の意味があるだろう? たとえば、自分の中には欲望があって、好奇心があって、一度きりの人生を他の誰よりも素晴らしいものにしてやるのだ、といった愚かな衝動があって、とにかく、もう何だか対処のしようがないくらいに分裂してしまっている。そもそもそんなことが問題になっているのだろうか? それすらもよく分からない……そういう感じのときがあるのだ。

 しかし、最終的にはいつも次のように自分に言い聞かせ、気持ちを立ち直らせている。——自分のことについて考える必要はない、それは誰かが代わりにやってくれるだろう。自分のことについて考える必要はない、自分以外のことについてだけ考えればいいのだ。やらなければならないことはずいぶんある……「このロシアの国では、やらなければならないことはずいぶんあるよ! 私の言うことを信じてくれたまえ。私たちがかつてモスクワでよく顔をあわせて話しこんだことを、思いだしてくれたまえ……それに、私は今度こちらへ帰ってこようなんて気はまったくなかったんだよ! いや、こんなふうにしてきみに会おうなんて、まったく、まったく思いもよらなかったよ! でも、しようがないさ!……それじゃ、さようなら! ごきげんよう!」(なんてかわいい人なんだろう、このムイシュキン公爵という人は! この人の率直さといったら、もう、すさまじいくらいである! それはそうと、この文章がこんな終わり方をしてしまったことに、僕自身とてもびっくりしている。文章としてまるでなっていないが、もう何でもよくなってしまった)。

2020/09/09

 ここ数ヶ月はドストエフスキーの作品、特に『カラマーゾフの兄弟』を何度もめくって読んでいる。いまの僕であれば、どんなことに対しても、自分の考えることよりむしろこの小説に書かれていることの方をすっかり信じてしまうだろう(だって自分の考えることの正しさなんて信用できないもの!)。

 また、ドストエフスキーとサリンジャーの小説に出てくる登場人物は、どれもとても際立っているので、忘れてしまうことができない。善的なものも、美しいものも、正しいものも、それらとは対極にあるものもすべて、愛さないではいられない。どうしてこんなにも心を動かされなければいけないのか?

2020/08/21

 昨日書いたのは、その人の苦悩の大きさによって、その人の罪が免除されてしまうということについて。あるいは、人間は「この人は苦しんでいる(苦しんできた)」という証拠を見つけない限り、他人を許してやる気にはならないということについて。それも、他人の苦悩の度合いを正確に知ることなんて、決してできないのにも関わらず?

2020/08/20

 他人の苦悩の程度を軽く見積もってしまうことが問題なのである。いつも自分が見下している、あるいは軽蔑している人間が、実際はものすごい傷を抱えており、家で人知れず頭を抱えているらしい、ということを知ったら? その人は、おそらく自分にはとうてい理解もできないほど大きな苦悩を持った、不幸な人間なのだということが、後になって判明したら? もしそんなことになったら、僕たちはこれまでの自分の行いや考え方について、またそれを恥ずかしげもなく周囲に見せびらかしていたことについて、そして自分は恵まれているのだということについて、赤面しなくてはならなくなるだろう。そして、猛省しなくてはならなくなるだろう。今後いっさい、他人の欠点について、鬼の首を取ったようにべらべら喋るなんて資格は自分にはないのだということが、痛いほど分かるだろう。他人の苦悩の大きさを知ることはできないし、地上にどれだけたくさんの不幸があるのか、見ることはできない。もしかしたら、もういっさい黙ってしまって、道徳的に気をつけの姿勢をとっていなければならないほどなのかもしれないのだ(もちろんそんなことは度が過ぎているのだが、しかし……)。

2020/08/10

 大人が特定の子供について、その良し悪しをあれこれ評価したり批判したりすることは、絶対にあってはならないことだと思う。子供がただそのままの状態であっていけないという理由は何もないのだ。問題が生じるとすれば、いつも大人あるいは社会の責任であると言って、何も言い過ぎではない。子供は与えられたものを内側に取り込んだあと、それをほとんどそのまま外に向けて放っているだけである。子供にとやかく文句を言うより先に、僕たち大人はまず反省をしなければいけないだろう。

 そしてよくよく考えてみれば、それとまったく同じように、大人が特定の大人について、その良し悪しを評価したり批判したりすることも、あまり褒められたこととは言えないはずだ。なぜなら、人間は誰しも、与えられたもの以上のものを他者に与えることはできないからである(これについてどうかよく考えてみてほしい)。したがって、僕たちはまず穏やかに、それから謙虚に、必要に応じて反省的にならなければいけないのだ。

2020/06/28

最近の僕は「優しさ」に固執しすぎる傾向にある。それが一番大事なことだからなのかもしれないし、あるいはそうではなくて、僕が自分の抱えている問題(何?)を克服するために、その周辺をずっとうろうろしているだけなのかもしれない。しかし当然のことながら、優しいかどうかだけによって人間の価値が量られるのではない(そもそも、人間が他の人間の価値を量ること自体が間違っているのだけど、そういう面倒くさい話はさておき)。
優しくない人とも仲良くできる方がいいに決まっているし、優しくない人にこそ親切にしなければならないが、優しくない人のことを必要としてはいけない。自分より優しい人たちを必要とし、自分より優しくない人たちに親切にすること。

2020/06/23

どんな人の、どんなささいな呼びかけにも反応すること。言葉を発しなくてもよい。話すことができない人たちがするように、仕草や表情や視線を使って「あなたのことを受け容れています」という合図を送ることができる。人は街中で知らない人とぶつかったとき、相手が怖い人ではないだろうかと怯えながら、小さく「すみません」と言う。そういった人たちを安心させる振る舞いをつねに心がけなければいけない。物腰の丁寧な老人を見習うこと。相手が自分に怯えているとき、こちらはあなたを傷つけるような者ではないということを、真っ先に分かってもらわなければいけない。地上にあるすべての争い、憎しみ、人間不信は、人間どうしが互いに怯え合っていることから始まっている。いつも変わらず穏やかでいること。砂漠にあるオアシスのような存在でいること。『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』に登場する小柄な老人から多くを学ぶことができる。

2020/06/22

相手によって態度を変えず、すべての人に平等に接すること。自分の目の前にいる人が誰であれ、自分のことを憎んでいる人であれ、こちらはつねに思いやりを持って温かく振る舞うこと。

それらしい理由をつけて、自分のできる最大限の親切を提供することを怠るとき、人は自分のことしか考えていない。相手が自分を利する人間であるか否かを天秤にかけ、他人をはるか高みから分析し、そして見捨てているのである。そのような思考に陥っているとき、僕たちは、他の誰よりも思い上がった、救いようのない人間になり下がる。人の上に立ったような気になってはいるが、その実、人から愛される資格を持っていない。そしてそのことを無意識でこそあれ自覚しているのである。

このように、自己嫌悪というものは、他人に対する自分の不誠実から生まれるのだ。他人を愛することができる人は、自分を愛することもできるし、他人を進んで許そうとする人は、自分を許すこともできるのである。

2020/06/17

百人の村で人殺しが一人生まれたら残りの九十九人にも責任があるんです。それなのに、ある人たちは「人殺しを罰しろ!」と叫びながら石を投げるし、他の人たちはまるで自分とはまったく関係がないかのように(くさい物に蓋をするように)見て見ぬふりをして、考えず、それを話題にするのも嫌っている始末。ふざけるなと言いたい。すべての人が少しずつでいいからまったく同じだけ反省しなきゃいけないんです。悪いニュースを耳にするたびに「これまでよりも人に優しくしよう」と心に誓わなければいけないんです。

2020/05/25

人を傷つけているような気がする。気のせいかもしれない。分からない。自分が誰から必要とされているのか分からない。どうすればいいか分からない。気のせいかもしれない……

2020/05/23

僕が心の中でひそかに誰かを軽蔑するとき、その軽蔑は何かしらの形で必ず僕の態度に現れたに違いなく、そしてその軽蔑からくる冷たい態度というものが、その人を苦しめ、その人自身では解決しようもない立場にまで追い込むようなことがあっただろう。それなのに僕は、そういった自分の罪にまったく気付かず、苦しい気持ちでじたばたもがくその人を、さらに軽蔑しさえしたものである(こういったことと同じことが、まったく当然のこととして、至るところで行われているのだ。以前までの僕と同じように、多くの人はそのことに自覚的ではない。人間が、他の人間の良し悪しを高みから判断し、この人は尊敬に値するけどこの人は軽蔑してもいい、なんて決める資格を持っているだろうか?)。

そして、僕はかつて人間そのものを軽蔑し、あらゆる人の行動を疑いの目で見、近づいてくる人を冷たい態度で遠ざけていたから、あらゆる人間に対して罪があると言って差し支えないほど、僕は罪深い人間である(そのことを分かっているのにも関わらず、今でもまだ人を軽蔑したり、批判したくなったりするくらいだから、まったくどうしようもない人間ですらある。でも、少しずつ向上してはいる)。

以上の理由から言っても、僕はこれまでの行いを悔いて、これからは会う人すべてに優しくしなければいけないし、どんな人のことも大切にしなければいけない。感謝と懺悔の気持ちを抱きながら、すべての人間に対して心の中でひそかに忠誠を誓い、他者に奉仕しなければいけない。それを自らの生涯の仕事として、日々精進しなければいけないのだ(それに僕には、それ以外に自分の仕事にしたいと思えるものが、何一つ見つからないのである)。

大げさに思われるかもしれないし、実際、少し大げさに書きすぎた感がある。大体こういった決意を、一生を通して抱き続けることが本当にできるのか? それは、はっきり言って僕にも分からない。もしかしたら、この文章を書いたことを忘れてしまう日がやって来るかもしれない(そうでないことを願っているのだが)。でも少なくともいまは、この文章に書いたことを、何のごまかしもなく信じているのである。

2020/05/22

怒り、憎しみ

傷ついたことによる悲しみ、苦しみ、辛さ、あるいは寂しさ、怯えといったものを、誰にも言わず一人きりで抱えていることはできないため、多くの場合、人はそれらを怒りとか憎しみに変えて、自分の外に吐き出そうとする。

人は「嫌われるかもしれない」という不安から相手のことを嫌いになるのだし、「殺されたくない」という怯えから「殺してやる」という憎しみは生まれるのだ。あらゆる負の感情は根っこでつながっているのである。

怒りや憎しみの状態にある人(誰にでもそういう瞬間はあるものだが)に必要なのは、ただ一つ、他者に面倒を見てもらうことである。とことん辛抱強く、慈愛に満ち、愛のある人からの援助を受けることである。その援助は、親が(あるいは兄や姉が)自分の愛するかわいい子供(弟や妹)の面倒を見るようなやり方でなければならない。子供を子供扱いするようなやり方ではなく、大人がかわいい子供に対して、心の中でひそかに忠誠を誓っているようなやり方である(もちろん、子供は例外なくみんなかわいい)。

怒りや憎しみを抱えている人が、誰からも面倒を見てもらえず、放ったらかしにされたとしたら、その人は死ぬまで暗い心を持ち続けることになる。孤独と疑いの人生を送ることになる。そのうち発狂してしまい、自分が何をしているのかも分からなくなるだろう。これはその人ひとりでは決して解決できない問題なのだ。必ず愛のある他者を必要とする。

ところで、大人が子供のように他者に面倒を見てもらうというのは、まったく当然のことであって、何も恥ずかしいことではない。なぜなら、人間は誰でもかわいい子供であるからだ。誰もが一人きりでは生きていけず、ときどき他者に面倒を見てもらうことを必要とする、ただの子供なのである。

それに人が怒りや憎しみを抱くのは、とことん不幸な偶然によってそうなるのであって、その人自身のせいではないのである! 全人類が共有して持っている負の感情の配分に偏りが生じて、たまたまその人に大きな負荷がかかってしまったのである。そのことをすべての人が承知しているべきなのだ。

だから、怒りや憎しみの状態にある人にこそ、丁寧に、愛を持って接しなくてはならない。自分が負の感情を抱えているときは、できるだけ素直に、他者に面倒を見てもらわなければならない。そしてそれは何もおかしなことではないのだ。心に余裕のある人は、自らの偶然の幸せに感謝して、負の感情を抱えている人を助けるのである(もっとも、それは簡単なことではない。とことん辛抱強く、慈愛に満ち、愛のある人にしかできないことである。ふつうの人間がそれをやろうとすると、自らが負の感情に支配されてしまい、問題はさらに複雑化するだろうから)。

「(…)あのね、リーズ、長老が一度こんなことを僕におっしゃったんですよ。人間というものはたえず子供のように面倒を見てやらねばならぬ、また、ある人々は病院の患者のように世話してやらねばならないって……」(カラマーゾフの兄弟)

2020/04/23

本当にめちゃくちゃな気持ちになってばかりいる。いま僕は、会う人すべてに優しくしよう、どんな人のことも大切にしようという気になっているし、僕の好きな人たちが僕のことをほとんど気にかけてくれなくても構わない、ただその人がその人にとっていちばん良い状態を手に入れてくれさえすればいいとすら感じている。でもこれは一時的な病気みたいなものだと理解していて、こういう極端に素晴らしい気持ちになることもあれば、極端に何もかも嫌になったりすることもあるのである。いずれもあまり正気とは言えないのだけど、それでもなんか、そういうわけの分からない感動が、いまの僕の何かしらの原動力になってはいるのである。どんな感情もくみとって、そこには苦しみとか悲しみもあるだろうが、それでもなおそういったすべてを祝福しようという気持ちになっているのだ。

2020/04/22

自分の心がせまいのを感じます。それというのも、人の心のせまさを目の当たりにしたからなのだけど。きっとそういう心のせまい人たちも、他の心のせまい人たちの心のせまさを目の当たりにしたから一時的にそうなっているのだろう……と想像するとき、少しだけ心をひろく保っていることができる気がする。

2020/04/20

傷ついた心を持つ人は気持ちがすさんでしまって、「自分ではない誰かが傷つくのなんか構うものか、僕だってこんなに傷つけられたんだ」という考えを持つようになる。しかし一方でその人は、「傷つけられたことで僕はこんなに苦しい思いをしている、他の誰かにおなじような思いをさせることはできない!」という考えをも抱くようになる。

このまったく正反対のふたつの考えにはさまれ、押し潰されそうになる、まさにその点に、傷ついた心を持つ人の地獄があるのだ。自分の「欲望」を押し通すためなら他者を傷つけても構わないとする考えと、他者のそういう考えに傷つけられる苦しみをよく知っているからこそ抱く深い「良心」。欲望を押し通すとき、必ず良心の呵責がつきまとい、心が安らぐことはない。逃げ場がないのである。

2020/04/17

人の悪口を言うのではなく、自分の苦しみ(とか悲しみ)について語ろうとしなければ。誰かに対する憎悪や非難はなるべく抑え(それはときどき難しいのだけれど)、自分がどういうことで苦しんでいるのかということだけに焦点をしぼり、考えたり話したりしなければいけない。もし仮に誰も悪くなかったとしても、人は苦しんだりするし、自分の苦しみを誰かに打ち明けることによってはじめて、人はそれに耐えることができるのである(負の感情を自分ひとりで抱えていることはできない)。

2020/04/16

昨日にくらべて、今日は心が落ち着いています。

2020/04/15

本当に「ありとあらゆることに、いささかの期待も」しないのであれば、ブログすら更新しないのだけど。だからもう……なんか、もう何も言えない。ああもうほんとに脳みそなくなってくれればいいのだけど。ものを壊したり、壁に頭を打ちつけたりしたい。つらい、すごく苦しい。ほんとにどうすればいいか分からない。
つらいです、さみしいです。もうダメです。もう……ほんとに……きびしい。ちょっと、いくらなんでも流石に、どうしてこんなにずっと辛くて寂しい目に遭わされなきゃならないのか? と何かを糾弾したくなってきました。これから良くなっていくと思っていた矢先にこれなんだもの。どうしようもない。とりあえずコロナが収束するまでは、ありとあらゆることに、いささかの期待もせず、淡々と日々を送ることだけ考えます。

2020/04/14

誰も悪くない

僕が何よりも先に信じている考えは「誰も悪くない」というものである。どんなに凶悪な犯罪者も、独裁者も、その人自身が悪いわけでは決してない。何かに失敗した人も、その人の自業自得で失敗したのではない(「自己責任」なんて存在しない)。どんな結果にも原因があって、その原因にもやはり原因があって、原因から結果へと絶え間なく(どうしようもなく)物事は進んでいくだけなのだから、この世に悪い人など一人もいないのである。

ものすごく過激なことを書いていると自覚しているから、声を大にしては言わないのだけど。それでもなお、僕はこの考え(「誰も悪くない」)からすべてを始めるべきであると強く思うのだ。そうでなければ世の中は良くならないし、世の中が良くならなければ、自分が良くなることもない。

だから優しくない人に対しては、その人が優しくなってくれるまで、優しくし続けるしか方法はないのだ。優しくない人に冷たくすると、その人はますます優しくなくなって、誰かを傷つけるためによそへ行くだろう。あるいは優しくない人を仲間外れにするといつか、優しくされなかった人たちが徒党を組んで、すべてをぶち壊してしまうだろう。報復主義によって生まれるのは戦争だけなのである。

このような考えを抱いてもなお、しっかりと生きていくのはものすごく辛いことである。はっきり言って、死ぬほど辛いことであると僕は思う。泣きたくなるほどである。自分の中にある負の感情と、上に書いたような理屈(「誰も悪くない」)とを戦わせ、そのふたつに押しつぶされそうになる瞬間が、これから何度もやってくるだろう。でも僕の中にも優しくない部分はたくさんあるし、それを優しい人たちに許してもらうためにも、僕は人の優しくない部分をすすんで許し、自分にできる限りのことをしなければならないのだ。

そういう世の中の仕組みに気づいてしまった人は、辛いけれど、それが自分のやるべきことと信じて、自分を捧げなければならないのである。どこまでも賢くなって、どこまでも優しくなって。賢さが足りなくて、「優しいことをしているつもりが、本当は自分を押しつけているだけだった」ということもあるけれど、そういうときもやはり、優しい人たちが僕を許してくれるだろう。そうすれば僕はさらに賢く、さらに優しくなることができるのだ。何かが良くなるとしたら、そういう道のりでしかあり得ないのである。

2020/04/13

心は少しずつ開かないと。でないとナイフで刺されてしまいます(刺されるとすごく痛い)。でもあまりにももたもたしていると、逆に愛想を尽かされてしまう(こちらがナイフで刺しているという場合も)。自分が傷つくのには無感覚になって、相手のスピードに合わせることができるなら、それが一番いいのだが。

2020/04/12

黒子みたいに自分の顔を隠してしまう、それでも幸せに生きていけるようなやり方で、人は生きていかなくてはならない。

すべての人が心の底から望んでいるのは、自分がどういう人間であるかにまったく関係なく、自分のことを無条件に愛してもらうことである。顔とか身体つき、名前、年齢、肩書き、何を言うか、何をしているか……など、そういったもののすべて(自分にまつわるもののすべて)が自分から失われ、もはや自分が自分であることの確認ができなくなったとしても、以前とまったく同じように他者に受け入れてもらうことである(神様がいればそれができるし、愛とはそういうものでなくてはならない)。

ブログもツイッターも本当はやめたい。僕はこんなにも素晴らしい人間なのだと主張しているみたいな気持ちにさせられることがある。できることなら、そういうことのすべてをやめにしたい。

2020/04/11

僕はどうやら、冷笑されるとかなり頭にきちゃうみたいです。

怒りとか嫉妬、憎悪はまだいいのです。でも冷笑は、冷笑だけはこの世界からすべてなくなってほしい。「冷笑」によって連帯しているコミュニティーはひとつ残らず解体されてほしい。冷笑している自分を発見することもあって、そういうとき、ものすごく反省します。

2020/04/05

僕はめったに泣いたりしないのだけど、いまいつになく感傷的になっていて、暗い部屋の布団のなかでうずくまりながら、これはいったい何なのだろう? 僕たちがいままさにしていること、泣いたり怒ったり悲しんだりしながら、それでもなお全体としては祝福しなければいけないらしい人生について、すべての人がまったく同じように直面しているのにも関わらず、そのほとんどの部分を分かり合えない人生の意味とは、いったい何なのだろう? と考えをめぐらせながら、喜んでいるのか悲しんでいるのかもよく分からず、ただただ心が感じやすくなっている。いま月の裏側にいるような感じで、誰の手助けをすることもできないし、たぶん声も届かないけれど、すべての人をかわいく思いながら、すべてが良くなりますように、ちゃんと物事が正しい方向に進みますようにと祈っている(そうとう心が弱くなっているに違いない)。僕はいまとことん一人きりなのだけど、僕がいま遠くから地球を考えているみたいに、遠くから僕を考えている人がいることも知っていて、だからまったく寂しくはないのである。でもこれはいったいどういう感情だろう? とやはり思う。弱いけれど、すごく強い気持ちなのである。これで問題ない、大丈夫だと強く思うのである。

2020/04/04

たとえ自分が幸せであったとしても、この世に不幸な人が一人でもいる限り、僕は自分の幸せを申し訳なく思わなければならないし、その幸せを享受することを恥じなくてはならないし、その幸せを公の場所で見せびらかしたりはせず、自分の生活を隠さなければならない。

自分が自分であって、他の誰でもない(ガンジーでもヒトラーでもない)ということは、僕が決めたことではない。ただのくじ引きでしかない。僕が幸せになるか不幸になるかもすべて、僕が決めることではない。僕が「幸せくじ」を引いたとして、隣の人が「不幸くじ」を引いたとして、僕はその人に「幸せくじ」を譲るようなまねはしないだろう。僕はその幸せを赤面しながら享受するだろう。自分が「幸せくじ」を引いたことをその場で喜んだりはせず、家に帰ってから喜ぶだろう。

公の場所で楽しそうにしていたほうが、みんなも楽しい気持ちになるというのは間違いない。それは自分の幸せを分け与えるようなものだ。

2020/04/03

ツイッターをあまり見ないようにします。それからしばらく東京に行かないことにします。そうすると使いみちのないお金が増えていくし、こういうときなので、こういうときでなければ使っていたであろう場所にお金を送るのは当然の発想である(そして当然の感情でもある)。今のところ自分にできることとしてそれくらいしか思いつきません……

もうよく分かりません。何かを言うのも頭がおかしくなりそうだし、何かを言っているのを聞くのも頭がおかしくなりそうです。こうなる前にどうにかするべきだったのでは? ここまでひどくなる前に? 政治の話ですが……

僕はいまもこれからも極端にお金に困ることはないと思う。でも極端にお金に困っている人がいまたくさんいるわけで、そういう人たちに対して国は何もしないわけで、そういう国の下でのうのうと生きている僕は、極端にお金に困っている人たちに対して、何らかの後ろめたさを感じるのです。それは頭がおかしい人の思考でしょうか?

あるいはそうではなくて、僕はもっと個人的な問題を抱えているのかもしれない。つまり寂しいのかもしれない。寂しくなかったら僕は政治なんか気にもとめないし、顔も知らない誰かが生きるか死ぬかの生活をしていることに対して、みじんも想像力を働かせたりしないのかもしれない。僕は政治がどうとか言うことによって、自分がどういう人間であるかを人様に宣伝したいのかもしれない。

そんなことは僕にだって分からないのです。自分の頭の中でいったい何が進行しているのか、そのへんは僕自身にだってよく分からないのです。

本を読みます。ブログを更新します。物理の勉強をします。英語の勉強をします。たまにつくばにいる友達と会います。バイトは引き続きあるようなので頑張ります。六日から家庭教師の仕事も始まるので(予防をしっかりしつつ)頑張ります。情報によるとその家ではヤギを飼っているみたいです。ヤギ。

2020/04/02

Aさんは、「Bさんが寂しがっているかもしれない」と思い、ときどき連絡をする。
Bさんも同じく、「Aさんが寂しがっているかもしれない」と思い、ときどき連絡をする。

でも二人はそれと同時に、「相手が連絡をくれるのは、『寂しがっているかもしれない』と自分を心配してくれているからなのかも」とも思っている。

じっさい二人はまったく寂しがっていないため、本当はあまり連絡をとる必要がない。それでいて連絡をとりあっているわけで、まさにそのおかげで、二人は寂しくないのである。
資本主義社会(すなわち競争社会)にいじめられると、父親は暴力的になり、母親はヒステリックになり、子どもは押さえつけられる。誰も悪くない。誰かが良いことをしなかった(したとしても足りなかった)というだけにすぎない。

2020/04/01

僕がそうしたいと目指していることは、自分の欲望などを完全に棚に上げてしまって、できるだけ他人のために行動すること。しかもそれを「道徳的に正しいことだから」という単純な理由によってではなく、その他のあらゆるやり方をも考え抜いたすえに、それでもなお僕はそうするべきであると(どういうわけか)本気で信じている人間としてである。「自分の洞察や知性に対して理不尽かつミステリアスな感謝の念を抱」き、「終始つらい悲しみを味わっていながら、いささかも批判せず、すべてを赦しているよう」な人間としてである。そういう人間に僕はなりたいし、なることができなくても、それを目指している人間ではありたい。そういう人格を心のなかで何よりも大切にしている人間でありたい。
昼寝をして起きたあと、あまりのさみしさ(というかつらさ)に絶句して、どうしたらいいか分からなくなってしまった。すべてのことを悲観的に考えた。何もうまくいかないし、うまくいっていると思っているものはすべて自分の思い込みなのだろう、という考えが頭から離れなかった。夢が悪いのかもしれないけれど、まったく思い出せない。(時間が経てばだんだんと回復する。なのでいまはだいぶ平気である。)

恐ろしいのは、こちらの考え方ひとつで、世界の見え方ががらりと変わってしまうことである。どんなに人から好かれていて、どんなに人と仲良くしてきた場合であっても、それらを信じることができなくなり、虚しさや儚さにばかり目がいってしまう。しかもそれは一時的なもの(脳みそのバグみたいなもの)であると分かっているのに、気持ちを保つことができないのである。

悲観的になるとき「こっちが本当だ(現実だ)」という思いを抱くようになる。これまでの元気はすべて空元気だったのかもしれない、どうやら僕はむりやり気持ちを明るく保っていたらしい、と本気で思ってしまうのである(実際いくらかはそうなのだろうが)。

空元気はよくないし、悲観的になるのも間違っていて、ではどういう心の持ちようが正しいのか、それを知っておかなければならない。それが分からなければ、自分がいま大丈夫かどうかの判断ができないのである。心の持ちようをチェックするための客観的な指標があるといい(考え中)。

2020/03/31

母親

家族のなかで母親がヒステリックになっているのであれば、それに気づいた人は、母親を力のおよぶ限りに愛さなくてはならない。理屈もこちらからの要求もすべて、たくさんの情愛とともに伝えなければならない。こちらからの要求を通すために情愛をもちいるのではなく、ちゃんとした情愛をなによりも先に示さなくてはならない(抱いていなければどうしようもない)。寂しさはいろんな負の感情(怒りや憎しみ)となって表に出るものだ。僕もそういうことの経験があるし、それは誰しも同じである。間違っても「母親自身に問題がある」だなんて考えてはいけない。あるいは「父親は優しいけれど、母親とは仲良くできそうもない」だなんて思ってはいけない。僕たちは(あるいは社会は)これまで、母親からあまりにもたくさんのことを求めていて、彼女たちは「もう与えるものがない(まるで足りない)」というところまで、与え尽くしてしまうのである。どちらが正しいことを言っているとか、そういう問題ではないのだ。理屈ではないのだ。僕たちはそういう世の中の仕組みを何よりもまず知らなくてはならない。「誰ひとり寂しくないこと」を目指さなくてはならない。

2020/03/29

寂しいのかもしれない……。まだよく分からない。たとえ寂しいとしても、こんなに寂しくなさそうにふるまっておいて、今さら「寂しいです、助けてください」とは言えない。一時的なものと思いたい。一時的に寂しくなるくらい、耐えてもらわなかったら困る。

バディーがズーイに宛てて書いた手紙を、もう十回くらいは読んでいる(というより眺めている)。心を広げてくれるようなものが必要だ。世の中はそういうもので満ちているべきだ。深呼吸して肺を大きくするみたいな気持ちにさせてくれるもの。
いまある(と僕が思い込んでいる)人間関係がどこまで続くのか、それは誰にも分からない。どんな人間関係も、その箱の中に何が入っているのか(そもそも何か入っているのだろうか?)は分からないものだ。何も知らされず、いきなり人が離れていくかのように見えたり、何も知らされず、また近づいてくるように見えたりする。「何も知らされない」、これはひとつの特徴であると思う。みんながみんな、それぞれ何も知らされないまま、近づいたり遠ざかったりする。僕たちは暗闇の中を歩き回っているようなものなのだ。心は誰にも(自分自身でも)よく分からないような複雑な動きをする。「どうして?」と思うときもある。でも説明を求めてはいけないし、自分のせいと思いすぎてもいけない。「何も知らされない」こと自体に不安になってはいけない。心持ちを大きくしなければいけない。
子どもはいちばん悪くない。子どもをいじめる大人が悪い。でも大人もそこまで悪いわけではない。大人をいじめる社会のほうがずっと悪い。母親がヒステリックになりやすいことは、母親に原因があるわけではなく、社会が押しつける母親像(ないしは女性像)に問題があるからに他ならない。女性は社会が押しつける男性像(勝ち組になれ)に潰れそうになっている男性を支えなければならないのだ。僕はときどき社会がすごく憎たらしく感じることがある。社会にとことんいじめられているのに、僕たちはそのことに気づかず、周囲の人たち(大切な人たち)のせいにしてしまうのである。まったく解せない。こうやって腹が立っているそばから、この怒りが、社会(それは相手にしようがないほど大きい)に対してではなく、周囲の人間に向かってしまわないかと怯えていなければならないのだ。

世の中がどういう仕組みになっているのかを僕たちは知らなければならない。丁寧に原因をたどらなければならない。どういう道のりで物事が良くなっていくのか、平和に向かっていくのか、それをまずちゃんと知らなければならない。理想の状態をいちど頭にたたき込まなければならない。

原因と結果・良いと悪い

僕がいま感じていることや考えていることは、僕が感じたくて感じている、考えたくて考えているのでは決してなく、ただあらゆる原因が複雑にからみ合い、僕の意思とは関係なく感じさせられている、考えさせられているにすぎない。だから僕の感じることや考えることが「悪い」からといって、それは僕の責任ではないか、あるいは「もともとある罪」でしかない。僕はこの「もともとある罪」のために謝罪しなければならないのだ。

とある人間の人格が「悪い」からといって、その人自身を責めることは到底できない。なぜならその人の人格形成にその人自身はいっさい関与していないからである。だからその人と仲良くしないという選択は、ただひたすら自分自身の欲求(仲良くしたくない)のみに委ねられているのだ。すべての人と分け隔てなく仲良くできないことについて、僕は心のなかでつねに謝罪し、許しをこい続けなければならないのである。

どんな結果にも原因があって、その原因の前にもやはり原因があるのだ。そうやって原因をたどっていくと、まだ誰も生まれていない時代にすべての原因を見ることができる。僕たちがすべき唯一のことは、何かが「良く」なるための原因をつくりだすことであって、「悪い」ものを批判することではないのである。誰も誰かの裁判官になることはできない(資格などない)し、自分自身の裁判官になることすらできないのである。

2020/03/28

「一人の足の不自由な人間から、もう一人の足の不自由な人間への言葉として聞いてもらいたいのだが、(…)お互い思いやりをもって温かく振る舞おうじゃないか。」

2020/03/27

ときどき人の名前を心のなかで叫んだりしている。彼/彼女たちがどんなに僕の心の支えになっていることか!(アリョーシャ……!)しかしそういった気持ちを言葉にすることは難しい(そもそも会うことができないような人もなかにはいる)ので、その人たちは、僕が心のなかでひそかに名前を唱えていることを知らないのである。それはもったいないことかもしれない。なぜならそういった感情は、その人たちがもっとも苦しいとき、いちばん彼/彼女らの心の支えになり得るものであるからだ。では一体どうやってそれを伝えればいいだろう? 感謝しています? 尊敬しています? 愛しています? 人はその言葉を信じてくれるのだろうか(例えばそれは「僕自身を押し付けている」みたいに聞こえるかもしれない)。ある種の感動は、それを心のなかに留めておくとき、もっとも自由で、純粋で、誰かに伝えるに値するだけの真実みを帯びるのである(皮肉なことだけれど)。だからたいてい黙っているし、ぎこちないし、難しい顔をしていることさえあるけれど、どうか、どうか僕のことをあてにしてください。僕がそのように強く思っているのだということを頼りにしてください。そうやって強く信じあうことでようやく、人は寂しさに耐えることができるのである……

2020/03/25

自分の賢さが役に立とうが立たなかろうが、僕は(自分を含め)みんな良くなってほしい!すべてが良くなってほしい!と強く思っている。それでも僕は必ずしもお人好しではないし、単純素朴というわけでもないのだが(自分自身の問題に手を焼いているのである)。しかしひそかに情熱を燃やしていて、自分が役に立つだろう(たぶん)というときには、自分の賢さとそれに裏打ちされた優しさをすべて働かせ、まさしく「すべてを良く」するのである。(僕は理想主義的なところがあって、そのために空回りすることが結構ある。)
僕はほとんど世間のことを知らない! 知っていることと言えば、自分の数少ない人間関係のなかで起こった(と見える)ことと、物語のなかで起こったことだけである。僕は完全に一人きりというわけではないけれど、家にこもろうがこもるまいが誰にも気づかれないくらいには一人きりの生活を送っていて、そういった生活のなかで、数少ない「知っていること」をもとにしながら、できるかぎりの想像力を働かせてものを考えたすえに、僕の「人間関係」観なるものはできている。ごくたまに人と飲みに行ったりすると、ほとんど恋愛と就活の話にしかならなかったりするけれど、そういうとき、僕は本当に何も考えが浮かばないし、何も言うことがなくなってしまうのだっだ。疎外感…

でもなんか、別にいいやとも思っているのである。誰しも一人きりになる時期はあるだろうし、僕はたまたま大学に入ってすぐがそれだったというだけで、人には人それぞれの順番があるのだ。ずっと一人きりで、それが改善する見込みすらないとなると苦しいけれど(それはかつて僕が思っていたことなのだが)、そうでないのなら安心してよくて、そのときそのときで考えつつ行動していれば、おそらく何の問題もないはずだ。自分に言い聞かせているわけではなくて、確かに僕はそう信じているように思う。(本当のところで僕が何を信じているかなんて、この僕ですら分かりっこないのだけど。)

2020/03/24

アリョーシャ…!! すごく正しいと思うよ、言葉とか行動とか……
人は誰でもたえず子どものように面倒を見てやらねばならない。誰かが僕に話しかけたりどこかに行こうと誘ってくれたりすることは、その人が僕を子どものようにかわいいと感じ、面倒を見なきゃと思うからそうするのであって、僕がその誘いを快く引き受けるのもやはり、僕がその人をかわいいと感じ、面倒を見なきゃと思う気持ちから来ていたりするのである。それはなんだか相手を子ども扱いしているみたいで侮辱的だと言う人がいるけれど、全くもってそんなことはなくて、人は誰でもかわいいし、僕がかわいいのと同じようにすべての人は子どもみたいにかわいいのだから、面倒を見なきゃならないし、面倒を見られなきゃならないのだ。もちろんこの表現にはかなりの誇張が含まれているのだけど、そうやって「かわいい子どもの面倒を見なきゃ」という相互の気持ちによってのみ、ようやく平和がおとずれるのである。家族でも恋人でも友人でもまったく知らない人どうしでも、いつもそういう気持ちによって支えられていなければならないのである。

2020/03/22

星たち

行ったり来たりして
もうしわけない
誰にも気づかれないように
ひそかに
心を燃やしているのである
あらゆる思考と
それから感動
好きも嫌いも隠れてしまう

ひそかな動機で
ことは進む
できごとは起こる
歴史は積みかさなる
じっさいくだらねえと
思わんかい
こんないい一日をまるまる
おやじにくれちまうのがさ

深くもぐって
呼吸をとめて
どこまでも深くもぐって
堕ちない程度に
なにか分かれば
それを秘密に
ひそかな動機で
ことを進めて

ひとつひとつは必死に
大きな視点で
穏やかに
熱は散らばり
宇宙はふくらむ
星たちはすれ違い
あいさつをする

世界性が失われる・大きな心持ち

僕はなんだかんだ冷たい(?)人間であるし、無尽蔵に優しさを持ち合わせているわけではなく、結局のところ「自分のこと」と関係があるから何かをするのであって、つい最近も「一緒にラーメン食べに行きませんか」と書かれたメモをくれた人に、まだ返事もしていないのである。その人がその提案をするにあたり、どれほどの勇気を振り絞っていたのか(あるいはもっと軽い気持ちによるものなのか)僕は知るよしもない。想像することはできるけれど。

僕はときどき(というか誰でも多かれ少なかれ)、ひとりの人間をこの世界から(一時的にせよ)弾き飛ばしてしまうくらいの力を持っていることがある。それは間違いなく「力」であると思う。僕はほとんど意図することなく、誰かを完膚なきまでに叩きのめしているのである。知らないうちに、あるいは「そうかもしれない(そうじゃないかもしれない)」と思いつつ。

僕がそういうことをあれこれ考えるのは、僕自身がこれまで何度も「世界から追い出された」みたいな気持ちを味わってきたからである。もしくは「世界性が失われる」と言ってもいい。まず初めに世界そのものがゆらぎ、そして最後がらがらと崩れ落ちる。「それが果たされないのであれば、その他すべてないも同然」となってしまう。



「ラーメンくらい食べに行ったらいいじゃないか」という意見も(僕の中には)ある。その「ラーメンの提案」にどれほどの意味が込められているのか、「その提案の同意」にどれほどの意味が込められてしまうのか、僕はほとんど分からないし、分からないからこれまでそういうことをわりと避けてきたのだけど、そうではなくて、僕はもっと柔軟になるべきではないか? (子供じみたことを言っていると思いますか? そう思う人たちはそう思う人たちだけがいる世界へ行ってしまえばいいのです。)

これまでずっと僕は「自分のこと」だけで精一杯であった。他人との関わり合いにおいて、(誇張していえば)ゼロかヒャクかしかないようなところがあって、あまりにも柔軟性に欠けていたのである。「人間の心というものは、海みたいに途方もなくわけが分からないもので、それぞれの海を一人きりで泳いでいる僕たちは、自分の身体が沈まないようにしているだけで精一杯である」という状態だったのである(これです)。

だけど最近はもっとたくさんのことが分かるようになっていて、「他人のこと」を考えることができる「大きな心持ち」がこの世界にはあるのだ、ということを知った。できることなら僕もそういう心持ちを手に入れたいと思っているし、今ならそのための試行錯誤もできるのではないかと考えている。そしてまさにそういう心持ちだけが、最終的に僕自身のことを解決してくれるのかもしれないのだ。



簡単なことではないと思う。「自分のこと」と「他人のこと」を考え、もっとも良い状態にもっていくというのはたぶん本当に難しい。それができないくらいなら最初から関わりを持たない方がはるかにマシだった、ということにもなりかねない。

この文章において、自分がどれくらい正しくものを考えられているのかすら、僕はいまいち分からない。まったく的外れなことを書いている可能性すらある。「一般的な考え」というものがあるのなら誰も迷うことはないのだけど、それがないからこそ、いろんな考え(憶測)が飛び交っているのである。この文章もそういった憶測のひとつなのである。

2020/03/18

ひそかな感動について

自分が今まさに感じていること(あるいは過去に感じたこと)について、それが何であるかを知っているとしか思えないような「他人」に出くわす瞬間がある。そのような「他人」との出会いにはたくさんの種類があって、実際にその「他人」と会って話をすることで分かることもあれば、その「他人」の文章や発言から、あるいはその「他人」の残した作品(例えば音楽)から、それがそうだと分かる場合もある。

そのような「他人」と出会ったとき、その感動を相手に(あるいは誰かに)伝えたいという衝動にかられるけれど、その試みはほとんどの場合うまくいかず、感動は自分ひとりだけの「秘密」になってしまうしかなくなる。それはその感動が、相手に自分を認識してもらうためのうかつな同調に取られる場合があったり、あるいはその可能性を危惧して最初からそれを伝えることを諦めてしまったり、その感動を説明するだけの語彙が自分になかったり、そもそも本当にそれは自分の感じていることとまったく同じなのか、確証が得られなかったりするためである。

しかももっとも面白くないのは、互いにそのような「秘密」を相手に抱いているのにも関わらず、それを伝えるすべを持っていないような場合で、そのようなとき、それがそうだと当人たちは知ることができないため、おそらく神さまにしか分からないような結びつきだけがそこに残ることになる。

人はあらゆる場面でそのような「秘密」をしぶしぶながら抱え込み、そのまま生きていくのである。しかもそれは時間を追うごとに増えていき、自分の中にある誰にも分かり合えない領域は、年を経るごとにますます広がっていく。誰にも打ち明けられることのない「秘密」はやがて「孤独」へと変わってしまう。辛うじてできることと言えば、誰かがどこか自分の見えないところで、自分に対してそのような「秘密」を抱いていると想像し、自分を勇気づけることくらいなのである。

2020/03/17

できることなら、僕のまわりにいる僕とおなじくらいの年代(あるいは年下)の人たちにこちらから近づいていって、その人たち自らが「それが欲しい」とか「そんなの要らない」とか「意味が分からない」とか言うこともいっさい無視して、その人たちが「まさに必要としているもの」を的確に見きわめ、それを押しつけて去っていくみたいなことをしたいくらいなのだけど、僕はそれができるほどの賢さを持ち合わせてはいないし、長く生きているわけでもないし、勇気もないし、まず何よりもそういった行動自体が、僕の個人的なエゴと結びついている可能性を否定することなど決してできないので、多くの場合、こういったブログで長々と意味があるのかも分からない文章を書いていることしかできないのである。

2020/03/16

恋人がいても、恋人以外の人と仲良くできなかったら、恋人ともいずれ仲良くできなくなるし、それは言い換えれば、「恋人がいようがいまいがどっちでもいい」といった状態でこそ、もっとも恋人と親密になることができるということであって……

僕はかつてそういう考えを疑っていたし、今でも「どういった身の振り方をすればちょうどいいかなあ」と模索しながら動いているのだけど、とりあえず理屈としては「すべての人がすべての人と仲が良い」状態(「隣人愛」に満ちあふれた状態)がもっとも理想的なのである。

「放蕩の限りを尽くす」状態と「すべての人がすべての人と仲が良い」状態は、一見すると似ているように思えるときがあるが、じっさいはまったく異なっているどころか、まったく正反対であるといえる。

愛には「欲求としての愛」と「隣人愛」の二種類があって、僕たちは「隣人愛」が大きくなるための努力をみんなでしなければならないのだ。そのための身の振り方を覚えなければならないのだ。(その中には「他人とどうやって仲良くなればいいだろう?」という問題が含まれている。僕はまだ上手にできないのですが……)
『カラマーゾフの兄弟』が面白すぎる。なんだこれ! 長いし、多少は退屈するだろうと思って読みはじめたのに。

2020/03/15

ものすごく軽いうつ

「自分を持て余している」みたいな時間がある。家にいても落ち着かないけどどこに行けばいいか分からないし、本を読みたい気分ではないし、聴きたい音楽もないし、何か書きたいこともないし、お腹は空いているけど何を食べたらいいか分からないし、誰かに会おうという気持ちにもならない、そういうときがある。何かが根本的に違っていて、居心地が悪いことだけは確かだけど、何をどう変更すれば正解なのか分からないのである。

今日は朝からそういう感じだったのだけど、コンタクトを入れたり寝癖を直したりするのは面倒だなと思いつつも、晴れていたから「外に出れば何かはましになるはず」と信じて出かける準備をし、昼過ぎ、お腹を空かせながら自転車を走らせた。

お腹が空いているから何か食べた方がいいと思いつつ、お金を払えば食べられるものの候補を挙げてみるのだが、どれも食べたいという気持ちにはならず、また、以前おなじような状態のときに気が進まないながらも食事をして、あまり楽しい気持ちにはならず後悔したことを思い出して、今日は昼食を食べないことにしようと心に決めた。

すると今度はどこに行こうかという問題になり、このまま適当に自転車を走らせるのも違うし、かといって「ここだ、ここに行こう!」と思えるような場所もないし……とあれこれ考えているうちに、結局いちかばちかコメダに行って本でも読もうという結論になった。うまくいくかもしれないし、いかないかもしれない。

結果的にはすごくうまくいった。今日はなぜかコメダに行って本を読むのが大正解だったのである。コメダで本を読んだりツイッターを眺めたりしているうちに、久しぶりに定食屋に行ってまともなものを食べたいという気持ちになり、夜七時頃、定食屋に行って「やきから(焼き肉と唐揚げ)定食」をお腹いっぱい食べ幸福感に包まれ、「このまま家に帰るのはもったいない!」と思ってスタバに行き、さらに二時間半ほど本を読んだ。その後、ようやく家に帰り、今この文章を書いているのである。

「そこに行ってみなければ(あるいはそれをやってみなければ)自分の求めているものが手に入るか分からない」というのはすごく不思議だが、困ったことである。はっきりいって、あまり良い状態とは言えない。たぶん「ものすごく軽いうつ」みたいな状態なのだと思う。(この状態がさらに悪化して、ほとんど家でのたうちまわっているしかない、みたいなひどい時期が僕にはあった。)
僕はおそらく人並みよりは自分の意見というものを持っているし、また、それの正しさもあるい程度までは信じている。しかし「自分の意見とは違う」という理由で誰かのことを嫌悪したり、誰かと仲良くしない、ということをしてはならないし、また、そういうことをしなさそうな人間であることが他人から見ても分かるように自分を「演出」しなければならない、とも今は思っている。

それは「あなたの意見には反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」といった、民主主義の考えからそうするのでは決してない。強いて言うなら「キリスト教的な」(あるいは単に「宗教的な」)考えからそうするのである。(だからといって僕は出家をするわけではないし、日曜日にミサに行くわけでもないので、いわゆる「信仰のある人」ではないことは書いておかなければならない。)

2020/03/14

まだ仲良くなっていない子どもに話しかけるとき、僕は(子ども相手であろうと)緊張しているし、どうしても最初は敬語を使ってしまうし、上司に「もっと明るく!」と言われるくらいには無愛想なのだが、あまりそういうこととは関係なしに子どもは僕を「いい人だ!」認定してくれる。「いい人だ!」認定されると向こうから話しかけてくれるようになる。すごい。仲良くなった子どもとは目があうだけですでに楽しい。ふだん僕をばかにしてくる中三男子に「先生は先生という感じではない。おもしろい。先生みたいな先生に会ったことがない」という(たぶん)褒め言葉をいただいた。小学生はときどき意味の分からないことを言うので、僕も負けじと意味の分からないことを言うようにしているのだが、だいたいスルーされる。おもしろい。

2020/03/12

『犬は吠えるがキャラバンは進む』と『イマジン』というアルバムをたくさん聴いた。聴けば、どういう心持ちでいればいいのかが分かるし、これから何をするべきかもよく分かる。僕はこのふたつのアルバムを尊敬している。「分からなくなったらいつでもここに戻ってくればいい」ものとして聴くべきアルバムである。それ以外に説明のしようがない。何を言っても陳腐になってしまいそうである。

いつも自分のなかにある「心みたいなもの」と対峙している。それは僕だけではなくて誰でもそうだと思う。思考やら感情やらが混ざり合ってぐちゃぐちゃしている塊(あるいは影?)みたいなものを、僕がじっと見つめているのである。その塊は僕の背丈よりも大きい。僕はその塊の動きをいくらかコントロールすることができる。しかし完全に自分の思い通りにすることはできない。人は自分よりも大きいものを完全に思い通りにすることはできない。

おととい『アンナ・カレーニナ』を読み終わった。これまで読んだ小説の中でいちばん長かった。退屈しなかったと言えばうそになるけれど、キチイはかわいいしリョーヴィンは愛すべき人間である。「愛すべき人間」かどうかでいえば、アンナもヴロンスキーも「愛すべき人間」である。トルストイはこの小説に出てくるすべての登場人物を(とりわけアンナを最も)「愛すべき人間」として描いている。
これまでと違う、まったく新しいことを書いていきたいと思うんだけど、何を書けばいいだろうか? 例えばそれは、このブログを読む人(それから僕自身)にとっての心の支えの一部になり得るようなものがいい。このブログを読む人が誰であれ(僕のことが嫌いな人であれ、僕とまったく意見を異にしている人であれ)不快な気持ちにはならないようなものがいい。力のおよぶ限り「心持ちを大きく」して書かれる、誰のことも排斥しない種類のものがいい。いったい何を書けばいいだろうか。

自分の考えをそのまま書く必要はあまりないのかもしれない。そうではなくてもっと具体的なこととか、簡単なこととか、生活に関することを書いてみるのがいいかもしれない。だからといって、僕がこれまで考えてきたことがそこに表れないということではなくて、それによってむしろより正確にものを伝えることができるのではないかと思う。何かを伝えようと必死になるよりも、ただ書いているほうが結果としてちゃんと伝わるのではないか?

ということで、これからのブログは「日記」と呼ぶにふさわしい類いの文章が増えていくかもしれません。「こんなこと、誰が好き好んで読むのだろう? せっかく書く内容がこれでいいのだろうか」と僕が思いたくなるような種類のことを、たくさん書いていくことになるかもしれません。その代わり僕は、なんの誇張も矮小もなく、強がりも弱がりもなく、できるだけ正直な気持ちになってものを書くことが(これまでよりもさらに)できるだろうと思っている。

2020/03/10

ここは海

ここは海
僕らは船員
神さまを信じられなくなった人の
想像力が嫉妬を持ちこむ
船はゆれる
視界もゆれる
嵐よどうかしずまって

ここはヴェトナム
僕らは戦友
あるはずのない音楽が流れ
すべては霧に包まれる
しっかりしろと
声がする
僕の気はたしかだと僕は思う

ここは砂漠
僕らは羊
先頭には光る子羊
列をなして歩きだす
いなくなった一匹を探す羊飼いに
僕らは導かれる
暗闇に追いつかれないように

ここは宇宙
僕らは衛星
星たちはすれ違う
近づき近づき 遠ざかる
あいさつだけは忘れないで
数億年後にまた会おう
さみしくなったら思いだして

2020/03/09

雑文(エゴについてのまとめ)

好むと好まざるとに関わらず、すべての事象には原因があって、その原因にもやはりおなじように原因があるのだ。誰かのことを批判したくなったとき、あるいは世界そのものを批判したくなったとき、それこそが自分のエゴであると解釈しつつも、その「批判したくなる気持ち」にもやはり原因があるのだと理解して、自分を責めることもまたしてはならない。

「何がエゴであって何がエゴでないか、それを決めるなんて、まったくの話、キリストその人でもなきゃできないことなんだよ」。誰かが僕に対して「良かれ」と思ってしてくれたこと、あるいは頼み事、あるいは単に好意を寄せていること、それらに対して「それはあなたのエゴである」と決めつけ、批判する「資格」など僕にはない。というより、そんな資格は誰にもないのだ。それこそ、キリストその人でもなきゃできないことである。

人が見ていないところで人のために何かをすること。そしてすべての人が、自分の見ていないところで自分のために何かをしてくれている他者について、想像力を働かせること。人は、自分の見える視野からは、自分ばかりが人のために何かをしているように見えてしまうものだ。お互いに、自分の見えないところで自分のために何かをしてくれている他者の存在を信じることができなければ、どんな平和も維持されない。

自らのエゴ(の可能性)についてはすすんで認め、反省し、許しをこうこと。人間がどうしようもなく人間であるということは、自分のなかにあるエゴについて、ひたすら神さまに許しをこい続けなければならないということである(原罪? これはあまりにも宗教チックに思われるだろうか)。

できることとできないことがあることを理解して、また自分の欲求(エゴ)を理解して、その上で誰とどのように仲良くするのか(あるいは仲良くしないのか)を決めなくてはならない。

2020/03/08

・不安にならない
・卑屈にならない
・いらいらしない
・嫉妬しない
・攻撃的にならない

幸せになりたいと思っているだけだし、そのために真面目に考えて、ぎりぎりのところで意思決定し、行動している僕のことを、誰も攻撃することなどできない(資格などない)はずだ。誰も、誰かのことを攻撃することなどできないはずだ。

2020/03/07

もっといろいろなことが上手にできたらいいと思う。人並みにできないこともたくさんあって、人並みにできるようになりたいと思う。でもどこが上手にできていないか、どこが人並みにできていないか、それを自分で正確に把握するのは簡単なことではない。想像力を必要とする。考える時間を必要とする。ときどきアドバイスも必要とする。多くの場合、アドバイスをする方にはリスクがともなうから、いつでも必要なときに必要なアドバイスが飛び交うわけでもない。まず、何よりも、人は他人の脳みその中身を見ることができない。それどころか「一般的にはこうする」といった模範も、あってないようなものである。人は、ひとりひとりがまったく異なった、ユニークな存在であり、「一般的」「普通」「常識」といった概念自体も不確かであるから、それらの言葉を持ち出してきて自分の行動を省みることにもやはり限界があるのだ。

もっといろいろなことが上手にできたらいいと思う。人並みにできないこともたくさんあって、人並みにできるようになりたいと思う。そのための努力もしたいし、してもいる。「どうしたらいいだろう? 何が正解だろう…」と思いながら、辛うじて「これが最善だ」と信じられる行動をとる。それしかできることはない。それ以上のことは運しだいである。

もっといろいろなことが上手にできたらいいと思う。

問題を抱えている人

緊張や怯えのあまり「その場にいる人たちの一挙一動、見逃しません」みたいな目つき、表情、態度になってしまうことが僕にはあった(今も少しある)けど、そういうとき、僕はその場にいる人たちを怖がらせていたらしいのである。僕が怖がっていることによって、反対に、なぜか僕が怖がられてしまうという現象。

でも中には、僕を一目見て「この若者は問題を抱えているのだ、だから強い目つきをしているのだ」というのを理解した人もいただろう。その人たちは「どうやってこいつの問題を解決すればいいのだろう。警戒を解くには? 問題を吐き出させるためには?」と頭を悩ませてくれたのだろう。僕はそういう人たちに感謝しなければならない。



『フラニーとズーイ』という小説で、ズーイは問題を抱えている妹のフラニーに対して、たくさんの言葉を使い、文字通り「まくしたてた」。家族どうしだから許されるということもあるけれど、ズーイがまだ若く、彼自身も悩んでいるひとりの人間であるということも関係していただろう。

対して『レイニー河で』という短編にて、老人は、問題を抱えているオブライエンに対して、ほとんど何も言わなかった。「何も質問せず、余計なことはただのひとことも言わず。彼は私を中に入れた。いちばん大事なときに、彼はそこにいたのだ——何も言わず、しっかりと気を配って」。そして、老人がオブライエンの核心に迫ろうとして喋った唯一の言葉が、「イエス様はいなさるぞ」である。



僕が問題を抱えているとき、人は僕をどうしようとしてくれているのか、僕はかつてより豊かに想像することができる。また、誰かが問題を抱えているとき、僕はいったい何をすればいいのかということも、かつてよりは豊かに想像することができる。問題を抱えているときの助けられ方(かた)にしても、問題を抱えている人を助けようとするやり方にしても、学ぶべきことがあり、向上があるのだ。