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2020/02/23

ゴルフ練習場のアルバイト

個人営業のゴルフ練習場(打ちっぱなし)でのアルバイトを週に二回、かれこれ一年半ほど続けているのだが、僕はこのアルバイトがわりと好きである(というよりも自分に似合っている)ということがだんだん分かってきた。



火曜日と木曜日(たまに他の曜日に入ることもあるけど)の夜八時、自転車で二十分ほどかけてゴルフ練習場に行き、それから九時半に閉店するまでの一時間半、機械にゴルフボールを入れたり(機械は七台あるのだがうち四台は自動で球入れされるので三台だけでいい)、打ちっぱなしに使うマット(人工芝がついているやつ)の位置を整えたり、客の吸ったタバコの吸殻を回収してまわったり、自動販売機の横にあるゴミ箱(これがたしか六個くらいある)の中にある缶やペットボトルや瓶を分別したり、燃やせるゴミをまとめて焼却炉に入れたり(いまどき焼却炉なんてほんとに使っているのかと初め疑っていたが、次に行ったときにはちゃんとゴミが灰になっているところを見るに、ほんとに使っているのだろう)、機械の中にあるコインを集めてまわったり(コインの数でその日の売り上げが分かるのだ)、そして最後、戸締りをしたりする。それで仕事は終わりである。もしこの時点で雨が降っていれば、オーナーが軽トラックで自転車もろとも僕を家の近くまで運んでくれる。

一時間半、やるべきことがないときはぼーっと過ごして、二千五百円である(客がいないと早く店を閉めることもある)。時給にすると約千六百六十七円。勤務時間が短いからたくさんは稼げないけど、小遣い稼ぎとしてはこれ以上にないほど素晴らしいアルバイトである。



しかし、それだけではない。僕は単に「ラクだから」という理由だけでこのアルバイトを気に入っているわけではないのだ。

まず、コミュニケーションをほとんど必要としないこと。客に「いらっしゃいませ」を言う必要もなければ、仕事は一人で行うので他のバイト仲間と連携する必要もない(受付ではバイトの女の子が雇われているがまったく別の仕事をしている)。唯一のコミュニケーションはオーナーとのちょっとした会話(それからたまに顔見知りの客に挨拶をする程度)であり、まじめに働いているかぎりにおいてオーナーは優しい。(ごくまれに不機嫌なときがあって理不尽な怒り方をしてくるときがあるが、そういうときは黙って心の中で反抗していれば怒るのをやめてくれる。)

次に、服装が自由であること。ジャージでもなんでもいいのだ。

最後に、向上心を必要としないこと。つまり僕はやるべきことだけやっていればよくて、しかもどれも誰がやってもほとんど変わらないような仕事ばかりなのである。仕事を覚えてしまえばあとはただの作業である。仕事に対してプライドを持つ必要はないし、責任もほとんどない。要するにこれはちゃんとした「アルバイト」なのである。僕は雇われている身だしお金が入ればいいのであって、オーナーもちゃんと言ったとおりに働いてくれればそれで満足なのであって、それ以上の何かを僕は求めないし求められないもしない。めんどうなことは何もない。さっぱりしているのだ。これは大事なことだ。



このアルバイトが合わないという人もたくさんいると思う。何よりもオーナーとうまくやっていけないと厳しい。それから一時間半のためだけにわざわざ移動するのは億劫だったりもする(僕の家からは近いけど大学からはわりと遠いのだ)。そして人間関係をアルバイトに求める人は(そういう人たちの気持ちもよく分かるのだが)この仕事が辛いと感じるだろう。そこまで清潔な場所というわけではないので(屈強な虫が登場することもある)きれい好きな人も向いていないだろう。

2020/02/22

「他人」とは

他人の考えることは分からない。それが当たり前なのに、かつての僕はむりやりそれを分かろうとし、あれこれ考え、たくさんの想像力を働かせた。そしてその想像のひとつひとつに感情移入した。たくさん想像すればするほど、たくさん感情を自分の中から引っ張り出してこなければならならず、その結果、不必要に自分の感情をゆさぶることになった。そして最後「分からない」という思いだけが(恐怖をともなって)強く残るのだ。「どんなに考えてみても一向に分からない」と。

他人は「真っ暗闇」に似ている。そして僕はその暗闇のなか一人きりで突っ立っており、「そこに何かがいる」という気配だけは感じるけれど、それが何なのかは分からないまま混乱していた。それは自分の味方をしてくれるものなのか、それとも邪悪なものなのか。傷を癒してくれるのか、それとも傷つけてくるのか。近づいてもいいのか、遠ざかるべきなのか。耳をすましたり、おそるおそる手を出して触ってみたりもするけれど、「分からない」という思いが消えることはない。

あまりにも長いあいだ暗闇のなかに立たされていると、だんだんそれが「不当なもの」であるように思えてしまう。「真っ暗闇」とかそこにいる「何か」が、僕を蔑んでいるように見えてくるのだ。僕だけが何も分からないまま混乱させられているのであり、僕以外の人やものは事情をすべて知っている、そしてその上で僕だけを仲間はずれにしているのだ、という考えにとらわれてしまうことすらあった。

しかし、そうではない(ということを僕はいま知っている)! その「真っ暗闇」なり「何か」なりは、確かにその実体をつかむことはできないけれど「邪悪なもの」では決してない(あるいは、僕がかつて考えていたよりははるかに「邪悪なもの」ではない)。「分からない」という思いが消えることはない。しかしそれが「いいもの」であるということだけは(ある程度まで)信じてもかまわないのである。不安を感じる必要はない!のである。

さらに言えば、僕以外のすべての人も僕とおなじように「真っ暗闇」のなかにいて、おなじように手探りしているのだ、という情景を思い浮かべることもできる。誰もがそこにいる「何か」について分かろうとしているのであり、そのために右往左往しながら、はからずも人を傷つけたり、誰かにつまずいたりしているのだ。するとやはりおなじように僕も「真っ暗闇」を理解しようと手探りしているうちに、意図せず人を傷つけてしまうことがこれまでにあったかもしれない、という考えが浮かんでくる。その人たちもまた、僕が感じていたのとおなじ恐怖を感じていたのかもしれないのだ。僕の知らないあいだに、である。



これが、僕が(現時点で)理解している「他人」の姿である。ここまで分かるまでかなりの時間がかかった。いろんなものが一周してもとに戻ってきた、みたいな気持ちである。

これからどうすればいいのかも大体分かっている。というより、分かって「きて」いる。やっと僕は自分を含むあらゆる人・ものになじんでいくことができるのだと思う。そういう気がする。

2020/02/21

遠くから

遠くから
あるいは自分自身から
助けをよぶ
声がきこえる

鏡をみると
平気な顔をしているし
一人でも生きていけそうな
歩き方をしているけれど

遠くから
あるいは自分自身から
助けをよぶ
声がきこえる

それはほとんど
声とはよべない
うめきであり
気づいてほしい
気づかれないでほしい
と つよく祈っている

恥をさらすと逃げだして
それでも望んでいるのは
引きとめてもらうことであり

攻撃して 泣きだして
それでも望んでいるのは
抱きしめてもらうことであり

遠くから
あるいは自分自身から
助けをよぶ
声がきこえて
いるうちに

「大きなもの」の言葉(あるいは規範)

人に対して怒りを覚えたり攻撃的になったりすることは、力のおよぶかぎり控えたいと思っている。それは言い換えると「誰も悪くない」ということである。(かつての母親はヒステリックになりやすい傾向にあったけど、今ならその理由がよく分かるし、僕はそのことで母親を嫌いになってはいけないのである。)

でもこれは、何にも怒りを覚えないということでは決してない。人を人でなくさせるものに対しての強い怒りが僕にはある。それは「大きなもの」に対する怒り、そして「大きなもの」のために犠牲を払えと要求する言葉(あるいは規範)に対する怒りである。「大きなもの」が、それ自体の利益のために人々にばらまいているいくつかの言葉に対する怒りである。

個人営業ではない、名のある会社の支店でバイトをしていたときの経験から気づくことだが、そこで働いている会社員はみんないい人ばかりなのに、ときどきすごくうさんくさくなるときがあった。どう考えても、彼/彼女ら自身が生きて学ぶことによって得た言葉ではない、誰かから教わったみたいな言葉をぺらぺらと使い始めるときがあった。そういうとき、僕はひそかにうんざりしていた。そして「この人のせいではないのだ。仕方のないことだ」と自分に言い聞かせながら我慢するようにしていた(単なる考え方の違い、ということはもちろんあり得るけれど)。

僕はいま人間不信ではない(かつてはそういう傾向にあったけど)から、人のことを怖いとは思わないし、人が僕に話しかけてくる言葉を疑ったりすることもない。だけどそれは「お互い」で交わされる言葉にかぎった話である。「組織される前」の僕たちが話す言葉にかぎった話である。組織すると、人は「大きなもの」の言葉を使い始める。僕はそれだけは決して受け入れない。受け入れる「ふり」はするかもしれない。でも、内側までそれらを取り込むことはしない。「内側まで無感覚にな」ることは絶対にしない。

「大きなもの」が悪い虫みたいにばらまいているいくつかの言葉を、徹底的に自分の中から追い出して、二度とふたたび取り込まないようにしなければならない。そして「自ら用意した規範に従って行動」しなければならない。それは「党や国や観念に忠誠を尽くしたりはしない」で、「お互いに忠実であろうとする」ことである。

※「大きなもの」については一度文章(「大きなもの」・人は弱くてもろい)を書いているので、こちらも参考にしてください。

2020/02/20

「性欲」について、恥ずかしいからという理由で書くことはしてこなかったし、これからもあまり書くつもりはないのだが・・・、当然(?)よく考えるテーマのうちの一つでありまして、特に、性欲があるのとないのとでは気持ちの面でどういう違いがあるのかに興味がありまして・・・、つまり「性欲」は体の問題なのに対して、「さみしい」だの恋心だのは心の問題なのであるから・・・てきなことについて考えることが多い。
お金と性欲には注意せよ(てきどな距離を保て)

好きなビートルズの曲たち

題のとおりです。『ラバー・ソウル』から『ホワイト・アルバム』までの曲から選びます。

・ドライヴ・マイ・カー(軽快な音楽がいい。「私はこれからスターになるつもりだから、あんたは私のお抱え運転手になるといいわ」という曲。)
・ノルウェーの森(村上春樹の小説の題に使われたことであまりにも有名。ショートショートみたいな歌詞。)
・イン・マイ・ライフ(「去る者は日々に疎し」的歌詞。ユーチューブでは小山田壮平のカバーを聴くことができます。)

・アイム・オンリー・スリーピング(眠たそうなジョン・レノンのボーカルがいい。歌詞カードの説明によると「時間に追われる現代社会を風刺したジョンの作品」とある。)
・シー・セッド・シー・セッド(これは個人的にすごく好きな曲。悲観的になっている「彼女」と、それに抵抗(?)しようとしている「僕」。)
・グッド・デイ・サンシャイン(「シー・セッド・シー・セッド」の次にあるのがなんかいい。陽気な曲です。朝な感じがする。)
・アンド・ユア・バード・キャン・シング(好きな女の子が振り向いてくれなくて嘆いているという曲。素直(!)でいい。僕はわりと好きです。)

・サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(「楽しいショウ・タイムのはじまりはじまり」という感じがにじみ出ていてよい。)
・ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ(「うまくいかない日も、友だちの助けがあれば何とかやっていける」という曲。リンゴ・スターがリード・ボーカルを担当している。)
・ゲッティング・ベター(「だんだん良くなってきたことを認めるよ」という部分が好き。悲観的な人がまわりの友だちに励まされてしぶしぶ元気を出している感じが。)
・ラヴリー・リタ(「女性警察官リタに恋をしてしまった男がひたすら彼女の尻を追っかけ回す」という曲。みっともなくなっている感じが楽しくていい。)

・アイ・アム・ザ・ウォルラス(ナンセンスな歌詞が特徴。サイケデリックな感じが前面に出ています。)

・バック・イン・ザ・U.S.S.R(「ソ連に帰ってきたよ」という曲。「ソ連」という言葉が使われているだけでもなんかわくわくしてしまう。時代とか国とかを感じられて楽しい。)
・マーサ・マイ・ディア(「マーサ」とはポールの飼っていた犬の名前らしいです。)
・アイム・ソー・タイアード(「僕はとても疲れたよ…」という曲。けっこう好きです。神経がくたびれている感じ。)
・ロッキー・ラクーン(中学生のとき、ベストアルバムに入っていたこの曲を「地味だけどいい」とか思ったうすい記憶がある。)
・クライ・ベイビー・クライ(『灯台へ』という小説と勝手に結びつけて記憶している。優しい曲であります。)

2020/02/19

僕はあまりにも一途に「幸せになりたい」と望んでいるだけだし、そのためにこそこうやって文章を書きながらあれこれ考えているのである。幸せになるためにはどうすればいいのか。「幸せなんてものはない!」と言う人がいて、それならそれでも構わない。じゃあ「もっとも良く」なるためにはどうすればいいのか、教えてほしい。僕はそれをずっと考えているし、ほとんどそれしか望んでいないのである。

物事はあまりにも複雑で、なにを大事にしてなにを無視するべきなのか、理解するためにはものすごく賢くならなくてはならない。

僕はすごく真剣であると思う。幸せになるためにはどうすればいいのか、なにが大事なことなのか、それを知りたいと思っている。世界のしくみを理解したいと思っている。そのためにではなく考えることはないし、そのためにではなく議論することもないし、そのためにではなく難しいことを言うこともない。

恥をかかないために自分をとりつくろったりも、できるだけしない(したことは何度もあるけれど……)。恥をかいたときは、そのまま黙ってうつむいていればいいと思う。そして遠くに逃げればいいと思う。大人になってもそうしたい、と僕は思う。

2020/02/18

心の持ちよう

ふつふつと煮えている
それをどのように片付けるべきか
氷水を浴びせるべきか
通りすぎるのを待つべきか
他の火をもって為すべきか

いくつかの期待が浮かんでいる
触れれば何かは起きるだろう
いったい何が起きるだろう
気持ちの準備は足りているのか

強く心に決めたことでも
いずれは懐かしさに変わるだろう
その過程にいらいらしてしまう
つなぎとめておけるものなど
この世界にはひとつもない

心の持ちようのもんだいがあって
心のそとには現実があって
それらすべてを見たうえで
気持ちをひとつに束ねなければ
ひとつの自分が動かなければ

2020/02/15

「人は永遠に生きられない」!と思うとき、今やっていることはすべて投げ出して、まったく別のことをやり始めてしまいたい気分にもなるのだが(人生の道草を食いまくってこそ人生だという気はするのだが)しかし、これからの三年間は集中して、なんとしても大学は卒業しなければならない。「大学卒業」は人生をらくにするためのコストパフォーマンスがあまりにも良すぎるからだ。他の楽しいことは後回しにしてでも、大学だけはちゃんと卒業しなければならない! 人生で一番の頑張りどころである、という気さえしてきた。大学を卒業できさえすれば、僕はもう頑張らなくていいはず(と思い込んでいる)。
21歳になりました(!!!)

2020/02/14

卑屈にならない!(心に余裕がなくなったとき、卑屈になりがち。わるい癖である。必要もないのに卑屈になって、自虐的になったり攻撃的になったりしないこと。僕を含めすべての人が、自分にできることをがんばっているのである。)
①調子にのらない
②投げやりにならない

①慣らさない
②腐らない

を心がける。それ以上のことは運しだいである。
誰か褒めてほしい… というわけの分からない気持ち(そんな気持ちになったことは記憶にあるかぎり一度もない)になっています。なんなんだ。

2020/02/13

『孤島』という哲学的エッセイの「ケルゲレン諸島」という章からの抜粋。(僕はこのブログで、高校では陸上をやっていてしかもそれなりに足が速かったのだ、ということを自慢したばかりであるが。)



「私は、しきりに夢想した、一人で、異邦の町に私がやってくることを、一人で、まったくの無一物で。私はみすぼらしく、むしろみじめにさえ暮らしたことだろう。何よりもまず私は秘密を守っただろう。私自身を語る、人の前で自分をあかす、私の名を出して行動する、そういうことはあきらかに私のもっている、しかもいちばん大切な何かをそとにもらしてしまうことであったようにいつも私には思われた。」

「身をもちくずしたある学校友だちが、かつて私にいったことがある、——自分はミュージック・ホールやその他の歓楽の場所に興味はない、心をひかれるのは、まがりくねった通りを歩くときで、そこでは夜がおりると、行きずりの女たちがかるくからだにふれて、低い声で話をもちかけてくる、と。こんな極端な例をひかなくても、深くかくされていないようなつよい感情というものはない、ということができる。」

「私は自分をありのままに名のることはないだろう、そればかりか、異邦の人に口をきかなくてはならないときは、むしろありのままよりも以下の人間であるかのように自分を名のるだろう。たとえば、実際にある国を私が知っているとすれば、その国を知らないふりをするだろう。私に親しい思想を人が得々と述べたてるとすれば、私はそれをはじめてきくような態度をとるだろう。私の社会的地位がなんであるかを人にきかれるとすれば、私は自分の地位をひきさげるだろうし、私が労務者の監督であるとすれば、私は労務者だというだろう。私は物知り博士をしゃべらせておき、その人にさからわらないだろう。」
「〇〇かっこいい・かわいい論争(〇〇には僕の名前が入る)」は、いまに始まった話ではない。その起源は高校一年のときであり、まだ小柄で痩せていた〇〇少年(体重は48キロだったと記憶している)が、県西駅伝のエース区間(一区)をトップで走り終えちょっと注目を集めたさい、他校の生徒たちから「かわいい〜」という黄色い声援を浴びてしまった(僕は走り終わってぶっ倒れていたというのに)という、喜んでいいのか悲しんでいいのかよく分からない出来事があって以来、この論争は続いている。(「かっこよくもかわいくもないぞ」という意見は、僕の知らないところでたくさん提出されていることだろう。)

高一のときほどのかわいさは今の僕にはないだろう(だからと言って「かっこいい」が増えたとも思わない。単なる劣化であると思う)。しかし(ありがたいことに?)今でもごくたまに「かわいい」という評価を受けることがあって、そういうとき、「男子たるもの、『かわいい〜』と言われて満更でもない顔をしていてはいけない!憤るべし!」と叫ぶ(内なる)声が聞こえないでもない。でも最近はそういうマッチョな時代でもなくなってきているから、あまり気にする必要はないと思っている。かっこいい女子もいれば、かわいい男子もいます。

僕の意見を(せんえつながら)言わせてもらうと、僕が「かっこいい」である瞬間がもし仮に少しでもあるのであれば(少しもないのであれば僕はもう知りません。どうでもいいです、こんな話は)、それはきっと「黙っているとき」かつ「平気な顔をしているとき」だろうと思う。僕がクールな人間でもマッチョな人間でもない(つまりいかなる「かっこいい」も持ち合わせてはいない)ことは、ちょっと話せばすぐに分かる。だから僕に対しては「かっこいい」よりも「かわいい」を求める方がはるかに無難です。もちろん努力はしますけども。(なんかでしゃばった文章を書いてしまった。)

2020/02/12

バイトのつらさが激減した(今日はなんか眠かったけど)。人前に出ることに苦を感じなくなってきている。これまでどれほどの負荷を自らに課して(むだに神経を使って)人と接していたのだろう。ここ一年半ほどずっと降下していたが、いまやっと上昇している感覚がある。(このまますべてうまくいくといいのだが。大学を卒業しないと。)

いま『フラニーとズーイ』を読み返している。僕はサリンジャー世界の少年少女たちからかなりの励ましを受けてきた。「サリンジャーの小説に出てくる少年少女たちみたいに僕は頭脳明晰(?)で、それがゆえにこんなに苦しんでいるのだ」と言いたいわけでは決してない。だけど、勝手に彼/彼女らを戦友みたいに思っている。とにかく「励ましを受けてきた」という事実はあるのだ。

戦友みたいに(勝手に)感じている人は同学年にも何人かいる。ひそかに思っているだけだし、別にそこまで仲が良いわけではない(それは僕の力不足ゆえである。これから仲良くなれるかもしれない)。僕たちは「子どもから大人になるまでの期間」における苦悩や葛藤を「ちゃんと」経験しているのだ。それは立派なことである。(みっともないこともたくさんしてしまうけど。)
タイトルのない短めな文章を更新しまくっていますが、それは(啓示を受けて以来まだ)僕の頭が整理されていないためです。思いついたことをたくさん書いては残しています。
だめだ、もう少し上手に……。少しずつ向上しましょう。焦る必要はない。ゆっくり広げていけばいいのだ。ふむ…
高校時代、僕は陸上部に所属しており、関東大会(厳密には北関東大会だが)に出場できるくらいには足が速く、部長も務め(ほとんど仕事はしていなかったがみんなが助けてくれた)、自由な性格で(部室ではよく歌を歌った)、人から好かれていた(間違いないと思う)のにも関わらず、女子とはうまく話すことができなかった。なぜだろう…

トラウマ(と言うほどのものではないのかもしれないが)があるとき、考えることそのものの意味があまりなくなる。トラウマというのは悪魔みたいなもので、僕に「お前がどんなにたくさん考えようが、それらは実際にある物事のほんの一部を見ているにすぎない」と言ってくるわけである。トラウマとは、不確定要素のことである(?)

きっとこの悪魔が(僕だけではなく)みんなの心にも住みついているから、さらに物事は複雑になっていき、さらに僕たちは悪魔の思うつぼにはまっていくのだろう。そうとしか思えないし、そうであるならばみんなで力を合わせればいいのである。みんながんばってください(『戦場のボーイズ・ライフ』を聴きながら)。

2020/02/10

人は誰しも(多かれ少なかれ)他人に言ったら軽蔑されてしまうような「人には言えない自分の内面」を持っており、ふとしたときにそれらが露呈してしまうのではないか、そして軽蔑されるのではないか、と怯えながら暮らしている。

しかし、それらはいつか誰かに(適切な誰かに)受け容れられなければならない。暴露しなければならない。そのためには「人には言えない自分の内面」とは一体なんなのかを明らかにしなければならない。一生怯えながら暮らすことはできない。
この場所(とてもいい!ブログ)は、僕にとっての心の支えである。
①僕がかつて「どいつもこいつも」と心の中で唱えながらそこら中に敵意を向けていたために、孤立していったこと。
②そして、僕がそういう人間(脳みそ激しいタイプで、人と仲良くできない人間)であるために、自己嫌悪していったこと。
③さらには、自分を他の誰よりも惨めな人間だとすら感じて、自分を罰する気持ちにさえなっていたこと(①と③は明らかに矛盾しているのだ)。

そういうことのすべてがいま解決されようとしている(しかしまだ気を抜くことはできない)。そういうことについての理解もすすんでいる。

エゴについて(再び)

「人と仲良くなりたい」という気持ちの何割かは、自分のエゴである。エゴとは、「なにかを欲しい」と思うことである。エゴは誰しもが持っているし、欲しいものを手に入れることはなにも悪いことではないと僕は信じている。僕は幸せにならなければいけない。

しかし、「人と仲良くなりたい」という気持ちの残り何割かは、「人を助けたい・楽しませたい」という利他的なものである。他人のエゴを感じるときも、その反対側にある(嫉妬とは切り離された)利他的な部分はすすんで認めなければいけない。また、自分のエゴの反対側にある利他的な部分もやはり認めてあげなければいけない。

そして、誰しもがそういう種類の葛藤を(多かれ少なかれ)しているのだ。「人を助けたい・楽しませたい」という利他的なものの割合を大きくしようと努力しているのだ。その点で、人は理解し合うことができるはずなのである。「僕たちはマインド・ゲームをしている 一緒にね/壁を押しのけたり 種を植えたりしている」云々。
僕は人を怒らせることがある。傷つけることもある。それは僕が世間知らずであるからだし、他人の気持ちを少ししか理解していないからでもある。僕は不完全な人間なのである。

だからたくさん考えているつもりでもときどき間違いを犯すし、その中には取り返しのつかないものが含まれていたりもする。場合によっては、僕の知らないところで僕のしたことによって(あるいはしなかったことによって)誰かが傷ついているということもあるだろう。その人はきっと、自分が傷ついていることを僕に説明しても伝わらないだろうと感じているから、僕にそれを打ち明けないまま一人で抱え込むのだろう。そして最後、それが身体の中で膨らみ続け、耐えられなくなるとき、僕から離れていくのかもしれない。

でも僕はたくさん考える。世間を知りたい、他人を理解したいという強い意志がある。向上心がある。人の話を丁寧に聞いたり一緒に考えたりすることで、僕の何が人を怒らせ傷つけるのかを理解し、自分の行いを改善しようという真面目な気持ちがある。そのための努力をたくさんする準備がある。

2020/02/09

これからの対人関係(家族でも大学でもバイト先でもどこでも)

・相手より先に仲良くなる「体勢」ができていること(相手が心を開いたときすぐ反応できるように)
・相手よりも少し「多めに」伝えること(「少なめに」ではない!)
・見返りを求めないこと(そうすれば傷つくことはない)
・自分が傷つくことに関しては無頓着でいい(そして力のおよぶ限り人を傷つけないように)
・「感じること以上のことをいったり」しない(これは今まで通り)
ここ一週間ほど、心境の変化がすさまじく、自分でもあまり理解が追いついていません。なのであまりブログを更新していませんでした。また少しずつ書いていこうと思います。書く内容にも変化があると思います。
『下津光史歌集』というアルバムがすごくいい。最近たくさん聴きます。

2020/02/05

↓ 2月3日に書いたけど、公開しなかった文章です……。これから良くなっていくと思います。

・・・

僕はすごく問題がある。問題があって、それが露呈するのを恐れているから、必死に問題がないかのように振る舞う。他人と深く関わって傷つきたくないから、自分で自分を助けようとして、一人きりで考える。でもそれが良くないのかもしれなくて、一人きりで考えているうちに、さらに他人から遠ざかってしまうのだ。問題は悪化し、ますます他人の考えることが分からなくなる。他人も僕の考えることが分からなくなる。誰とも言葉が通じなくなる。そして取り返しがつかなくなるのだ。

何が良くて何が悪いのか、誰が正しくて誰が間違っているのか、全く分からない。教えてほしい教えてほしい、といつも思っている。だけど誰からそれを教わればいいのか、教えてくれるその人は正しいのかすら何も分からないのだ。完全に手詰まりなのだ。僕の知らないところで、誰かと誰かが協力して、僕を助けようと働きかけてくれる。でも僕はどうすればいいのか分からない。何を言って、どう振る舞うのが正解なのか分からない。

複数の問題が頭の中でごっちゃになっていて、それらをえり分けることもできない。分かることがほとんど何もないのだ。分かったと思っても、後からそれは勘違いであるということを突きつけられる。強い感情はあるのに、それが誰に向けてのどういう感情なのかすら分からない。誰とも何とも自分自身とも結びついていないことを感じる。分からないのだ。言葉を使うより黙っている方が正しいくらい、根本的に見失っているのだ。

2020/01/31

人間関係とは! 目をつむりながら手を繋ごうとするようなもの……(つねにそう)
人は誰でも心の奥深くでは確かなものを求めているのだと思う。求めていないときがあるとすればそれは、「これは確かだ」と思っているものが崩れ落ちる瞬間を恐れているがゆえであると僕は思う。

2020/01/30

自分の書いた詩について

詩は「書けそう!」と思ったときに書きます。「ふつうの文章を書くのはめんどくさい(それなりに考えなきゃいけないので)けど、なんか書きたい……」というときに書いてみようとして書くこともあります。

自分の詩を読み返してみて「いいな」と思うことはあまりないです。でも「いいな」と思うものも(うぬぼれながら)少しあって、そういうものは積極的に読まれたいという欲求(!)があります。それで今日はそれらを紹介するためだけにわざわざやってきたわけです。

「いいな」とする、主な基準。①「そうだなあ」と思う(腑に落ちる、うそが書かれていない)、②すっきりしている(むだにあれこれ書いていない)。

玉ねぎを剥いていく
彼らのおびえ
ゆれる
太陽の夢
想い



自分の中にある「感じること・考えること」を自分の外に出したい、そしてそれを人に知られたいという欲求が、人間には(少なくとも僕には)ある。

そのためには多くのやり方があり、言葉を使う(話す、書く)のがもっともポピュラーではあるけれど、仕草なり表情なり視線なりで伝えようとする場合もあれば、絵を描くとか歌を歌うという人もいる。また文章を書くにしても、エッセイ、小説、詩などいくつか方法があって、どの方法が今まさに自分の中にあるものを外に出すのに適しているか、あるいはどの方法がもっとも自分の得意とするものであるかは、やってみないことには分からない。

その試行錯誤の場(詩を書くとか含め)として、このブログは大いに役立っている。(だから見るも耐えない文章を書くことがあるのだ。大目に見てほしい。)

2020/01/29

マインド・ゲームス

昨夜、ジョン・レノンの「マインド・ゲームス」という曲を聴きながらちょっと泣いた。「僕たちはマインド・ゲームをしている 一緒にね/壁を押しのけたり 種を植えたりしている」云々。

泣いているとき、泣いている自分の姿はどんなのだろう?という、泣いている人間にふさわしくない疑問がわいてきたりして、急いで泣くのを我慢しようとした。しかし実際のところ別にどっちでもいいことである、泣こうが泣くまいが。(念のため書いておくけど、僕は涙もろい人間では決してない。)



人間の心というもの(とかいってほとんど僕自身の心の話をするんだけど)は、海みたいに途方もなくわけが分からないもので、それぞれの海を一人きりで泳いでいる僕たちは、自分の身体が沈まないようにしているだけで精一杯である。

海の中で僕たちは、手に負えないくらいたくさんの思考と感情に押し寄せられ、息がつまりそうになりながらそれらを必死に乗り越えようとする。理解しようとする。そしてようやく落ち着いた頃には、家にいながらにしてあらゆる経験を経てきたかのような気持ちになっているのだ(感慨深さと精神疲労)。

まったく正反対の思考・感情が同時に押し寄せてくるとき、それらに押し潰されそうになる(あるいは引き裂かれそうになる)自分がいる(「ジェラス・ガイ」を歌っているジョン・レノンはとても苦しそうだ)。ふたつの思考・感情は互いに矛盾している。その矛盾を解消しないということは、どこかで自分の気持ちにうそをつかなければ(ごまかさなければ)ならないということだ。自分の気持ちにうそをつかなければならないということは、人前でもうそをつかなければならないということだ。本当にそうなのである。矛盾を放っておくと、いつか大切に想っている人たちの前でもうそをつかなければならなくなるときが来る。

大切に想っている人たちというのは、自分のことを理解してくれるかもしれない数少ない人たちのことである。その人たちにうそをつくということは、必死に理解しようとしてくれている人たちから遠ざかっていくことを意味する。それは自らを寂しい場所へと追いやってしまう行為である。

僕は理解しようとしている。あらゆる種類の心の動きを、なんの誇張も矮小もない適切な言葉で書き表そうと努めている。正直になろうとしている。なぜならそうすることが、自分自身を自分ではないものに完全に委ねてしまう(すべてを明け渡してしまう)ことを防ぐ、ただひとつのやり方だからである。

2020/01/27

僕のことをよく知らない人、あるいはこのブログでしか知らない人に向けて宣伝しておきますけど! じっさいの僕には愉快なところがあるのです! 安心しきっているとき、いっさい萎縮する必要のないとき(最近では中高の友人にあったときか、その他ごく少ない相手に対してしかその機会はないけれど)の僕のおかしさ、ふざけた感じには、目を見張るものがあるのです(もっと広範囲にのびのびやっていきたいと思い、努力してはいるのだが……)。いまここでその証明ができないことが悔しい。なんなら中高の友人をその証人として呼びたいくらいです(たしかに彼はいつもふざけたことを言ってはみんなを笑わせていました、うそではありません)。一日中おもしろいことを言うことしか考えていない時期というのが! 僕にもちゃんとあったのです(これは一部の人たちにとっての学生時代の生きがいである)! とりあえずこのことは僕に関する知識として(実感はなくとも)ぜひとも持っていていただきたい。このブログが読者に与える僕の印象は、いささか真面目すぎる、卑屈すぎる。じっさいはもっと楽しいやつ(なはず)なんです、あまり分かっていただけないと思うけども……

2020/01/26

恥の感覚・内と外

過去に自分のした醜態を思い出させるものに出会うとたまらなくなる。心の底では全く思ってもみないのに、ただそれが一番重い言葉だという理由で「死にたい…」という言葉が頭に浮かんできて、「それはうそだ、不適切だ」と思いながら急いで打ち消す。そしてすべて忘れるように努める。「いま現在は何も問題ないんだから、これからすることにだけ注意していれば大丈夫だ(あるいは何もしなければいい)」と言い聞かせながら。

「行動を起こす」というのは、それがどんな行動であれ怖いものである。どんなに懸命に考え、何度「これなら大丈夫なはず」と確認したとしても、やはり怖い。自分ひとりで考えている限り、間違いを犯していることに気づけないことがあるからだ。見落としがあるかもしれないし、そもそも前提から思いきり間違っていて間違った方向に考えを進めているということもある。不幸なことに、人は、自分がどんなに未熟な人間であるか、自分では気づくことができないのである。

「何とかして外へ」と思いながら行動範囲を広げてみるけど、そういった行動のすべてが他人から見れば滑稽なものとして映っているかもしれないと思うとき、たまらなく怖くて足がすくむのだ。「自分は正しく動けているだろうか? 恥をさらしていないだろうか?」という疑念が頭から離れないのだ。そして内側に引きこもることになる。「何もしなければ、何も心配する必要はない。安全だ」と考えながら、である。それは間違ってはいないが、一番大事なことを見落としている(あるいは見ないふりをしている)ことに気づかない。

「外へ向かっていきたいけれど、怖い」というジレンマとどのように決着をつければいいのか、僕は分からない。慣れない人と会うとき、僕は浮いているんじゃないかと思うことがある。歓迎されているように見えるがそれはうわべだけで、そのことに気づいていないのは自分だけなのではないかと心配になる。そしてそれがどこまで「実際にそう」で、どこから「自分の思い込み」なのか分からなくなるのである。近くで話をしているのに、僕だけが遠くにいるように感じられるのだ。

雑文(新しいことは何も書いていないのだが)

どんな人も自分のことしか知らないし、自分の経験したことしか記憶にはないし、自分の考えることしか考えることはできない。それらを踏まえると(それらとは別に道徳とか常識とか社会的理想とかはあるにしても)人はほとんど自分の考えることを自分でコントロールすることなんてできないだろうと思う。

どんなに立派な人も、みっともない人も、生まれてから現在にいたるまでの連続を生きてきたわけで、その人にとってはその状態がもっとも自然なのである。悪くなっていく場合でも、徐々に徐々に悪くなっていくのであって、それに気づくことは難しいわけで、気づいたとしてももう手遅れだったりするわけで、だとしたらどうやってその変化に抵抗することができるだろうか? 他人の脳みそ(ふつうの脳みそ、立派な脳みそ)のことをちゃんと知ることはできないのにも関わらず、である。

ひとりの人間を理解し尽くすためには、その人自身になりきるだけでも足りなくて、神さまくらい全知全能の存在になるしか方法はない。だとしたら、分かったような姿勢で他人を評価(非難)することなど絶対にしてはいけないのである(自戒を込めて)。ただ想像力を膨らませること(しかもその想像力はできるだけ偏りのない公平なものでなければならない)しかできることはない。



それとは別に、誰と仲良くするか(したいか、するべきか)という問題はあって、これに関して僕はまだちゃんとしたやり方を得ていない。僕がなんの欲もない人間であったなら、誰とでも分け隔てなく仲良くするべきである(あるいは誰とも仲良くしない)。なぜなら「こいつは悪いやつだから仲良くしてやらない!」という言い訳(一般的な善悪を引き合いにした正当化)をすることはできないからだ。だから「この人とは仲良くするけれどあの人とは仲良くしない」という判断をするさい、完全に自分の問題(自分の欲とかエゴとか偏見とかの問題)として考えなければならないのである。

僕はというと、よっぽどの仲良くしたい理由があるか、自然に仲良くなってしまった場合を除いて、基本的に人と仲良くなろうと思うことは(こんなにはっきり言っていいものか分からないが)ない。些細なきっかけを重視して(何かの縁だと思って)誰とでも仲良くなってみよう、そうしたら人間関係が豊かになるかもしれない、と考えた時期もあったが、そういうやり方は僕には全然向いていないらしいのである。(僕には一度に多くの人間関係を維持するだけのキャパが致命的に欠けているのであった。途方もない配慮とメンタルが必要に思える。)だから僕にとっては、一人きりの生活!(はさすがに無理でもまあまあそれに近い生活)を充実させることがそれなりに必要なのである(と思っている、二〇二〇年一月二十六日現在)。

2020/01/23

内的世界の探求

自分の外側にあるものが、自分の内側にあるものに入っていくことによって、人は楽しいとか苦しいとかいった感情を抱くことができる。このとき、外側にあるものは僕たちに「何らか」の印象を与えるけれども、その印象からどういった感情を引き出すかは、受け手側である僕たち人間に、いくぶん委ねられている。

物質的な富を充実させても、それを受け取る人間の精神的な営みが貧しければ、求めていたものは得られない。ここで言う「物質的」というのは、必ずしも物質(お金とか食べ物とか)のことではなく、社会的地位とか友人とか音楽とかいったものまで含む、現実世界のすべてのことを言っている。自分の外側にあるものすべてのことである。

逆にいえば、自分の内側にあるもの(精神的なもの)をいじくりまわして(?)、こちらが感じたいと思うことだけ感じることができるような内面を手にすることができれば、物質的な富を充実させる必要は一切なくなる(夢の中で暮らしているような状態)。でもこれはドラッグとか瞑想とかに走る極端な例であって、現実的な手段とは言いがたい。

しかしこの文章で僕が言いたいのは、自分の外側にあるものと内側にあるもの、その両方が、同じだけ大切なのであるということだ。つまり、僕たちはふつう幸せになりたいと願うとき、お金なり恋人なりが必要であると考えるけれど、それらとまったく同じくらい必死に、それらから「何らか」を受けとる自らの内面についても考えなければならない。



(外的)世界ではなく、内的世界の探求……。「私は何を感じ、考えているのだろうか」から始まる。それは「私とは一体なんなのか?」という形をとることもある。しかしこれらの段階では、まだ、疑問を投げかける「私」と投げかけられている「私」との間には適切な距離がある。それを近づけていくと最後、このふたつの「私」が重なり(統一され)、「私」を忘れる(我を忘れる)瞬間に出会うことができる(「目を閉じて 僕はいなくなるんだ ただ風の音を聞くだけの行為になるんだ」)。そういう瞬間を増やせば増やすほど、人生は感慨深いものになるのではないでしょうか(?)。(インドに行ってみたい、いつか必ず……。)

2020/01/22

なんかこのブログ、あれこれいろんなことを言ってるふうだけど、実際はただものすごく遠回しな言い方で「たすけて〜」とわめいてるだけ、という気がしてきた。

ヘルプ! 誰か助けて
ヘルプ! 誰でもいいってわけじゃないんだけれど (←これが問題解決をめっっちゃ難しくしている)
ヘルプ! ねえ 誰か助けて
ヘルプ!



今やることなくて、それで眠くもないから本を読もうとしたけどそれもダメで、そういうときが一番こたえるのだ。だからどうしようもなくて何かしら文章を書いてみようと思って文章を書いているわけです。だから書くことはなんでもいいのです。(事実を書くことは頭を使う必要がないのでらくだ。)



・散らかったら掃除をすること!(一気にではなく、常日頃から。)
・自炊してビールを飲むことにはまっている。(自炊だけでは続かないし、ビールだけではそこまで心惹かれないが、ふたつが合わさるとなんて魅力的なのだろう。)
・熱い飲み物が欲しいときはコーヒーかココアか紅茶を飲みます。
・アラジンストーブはかわいい。ルンバはそこまでかわいいと思わない。(進歩にたてつく平凡な大学生が言いそうなことだ。)
・一軒家にひとりで住むのは、わりと楽しい。(一軒家にひとりで住むことが理由で寂しいと感じることはない。寂しいときは一軒家だろうがワンルームだろうが関係なく寂しいだろう。ただ、ときどき「こんなに広いんだからあと一人か二人くらい住みにくればいいのに」と思うことがある。しかしエアコンないので夏に住むのはおすすめしない。)



・朝に聴くといいアルバム:ビートルズ『リボルバー』(ビートルズは『ラバー・ソウル』から『ザ・ビートルズ』までのアルバムばかり聴いている。飽きない。だからまだ『ヘルプ!』以前と『イエロー・サブマリン』以後のアルバムに手出しできていない。)
・夜の東京を歩くときに聴くといいアルバム:オザケン『犬は吠えるが〜』
・すごく名盤らしいから聴いていて、最近なじんできた:ビーチ・ボーイズ『ペット・サウンズ』(それより前に発売されたビーチ・ボーイズのアルバムもいくつか聴いてみるんだけど、どのアルバムも似たり寄ったりに感じられて、いまいちなじまない。)
・踊ってばかりの国の「ナイトライダー」という曲がすごく好き!(夜に聴くと心がすーっと落ち着く。)



今は『アンナ・カレーニナ』と『寒い国から帰ってきたスパイ』という小説を読んでいて、次に読むぞ!と待機させているのは『タイタンの妖女』と『ホテル・ニューハンプシャー』と『静かな生活』です。(お分かりかと思うが、僕はオタクでもなんでもなくて、ただ好奇心があるというだけにすぎないのだ。)



いつも「寂しい」と「大丈夫」のはざまにいる。気を抜くと「あれ、寂しいんじゃ?」という疑念が頭をよぎり、自分に正直になってよくよく考えてみると、「オーケー、私はいま寂しい(たすけて〜)」という結論にたどりつく(「僕は寂しくなんかない!」とむりやり自分に言い聞かせることは僕の主義に反している)。というのをくりかえしていけば、やがてだんだんそういうことにも慣れてしまうだろう(人間はどんなことにも慣れてしまうものだ、ってたしかムルソーが言ってた)。きっとあと一万回くらい頭を抱えれば、寂しさを感じる機能も麻痺してしまうことだろう。そうすれば僕は一人きりの生活(ある種のユートピア)を築くことに成功する。(あと一万回くらい頭を抱えれば!)
基本的な姿勢
①弱くあること。
②それでいて、同情を求めないこと。
③一人きりで生きていこうなどと思わないこと(寂しいので)。



『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を通しで聴くと元気が出る。このアルバムはたぶん(たぶんだけど)「励まし」のアルバムである。力強い励ましのアルバム! 偉大な……

2020/01/21

エゴイズムについて

自分が何かを求め、手に入れようとすることのせいで、他の誰かが不快に思ったり、傷ついたり、争いが起こったりするかもしれないというとき、それを求めることを徹底的にやめてしまおうと思うことがある。自分のエゴイズムをなきものにしてやろうと思うことがある。しかもそれを誰に打ち明けることもなく、自分の中だけで消化させてしまうのだ。不快に思う(傷つく)人が、実は僕が心のうちでは軽蔑しているような人間で、別にその人と僕との関係なんてどうなってもいいと思っていたとしても、である。それはある種のプライドなのかもしれないし、すでにまあまあ恵まれているから誰かを犠牲にしてまで欲しいものを手に入れる資格なんて僕にはない、と考えているからなのかもしれない。自分のエゴイズムに自覚的である以上、それを押し通すことは果たして正しいことなのだろうか?とあれこれ考えているうちに、もうどうでもよくなってきて、すべて他の人が望むような形になってしまえと思うのだ。後になって「あいつは利己的なやつだ」と後ろ指をさされたくないからなのかもしれない。「僕はまったく利己的ではない」ということを他人に証明してやろう、それによって僕の評価を高めてやろうという、あくまで利己的な動機に基づいているのかもしれない。とにかく僕は一人きりでもやっていくから、争いごとや馴れ合いはきみたちで勝手にやっててくれ、と思うことだってある。

もちろん自分の中でふたつのことを天秤にかけて、人を傷つけることになったとしても僕はそれを求めます、ということはたくさんあるだろう。そういうとき、僕は自分の内面の葛藤(天秤のこと)を少しも外に出すことなく、無慈悲な態度でそれを手にするだろう。(「僕だってたくさん悩んだのだ」という言い訳を聞きたい人間はどこにもいないからだ。)手に入れたあとはひたすら黙っていなければならないのだ、少なくとも、公(おおやけ)には。それは僕が犠牲にしたものに対する、ひとつの礼儀である。
孤独であること、秘密であること、自由であること。これらはすべて、同じひとつの状態の別の言い方にすぎない。

2020/01/20

2019年度のふりかえり

四月からは物理に明け暮れる日々を送ることになるだろうから、三月までに物理以外でやりたいこと(興味を持っていること)をできるだけたくさん済ませておきたい。それは主に本を読むことである。また、東京に出かけることである。

あることに強く心惹かれているのに、その全体像も分からないまま他のことに従事しなければいけない、というのは僕にとってかなり苦しい。僕は物理だけ、つくばだけで四年間を費やし、他のことを少しも知らないまま学生を終えてしまいたくはなかった! この一年、本を読んだり東京に出かけたりしたことで、それらについてくわしくなったとは全く言えない。しかし、僕が四月からつくばで本腰を入れて物理を数年学んだあと、必要であれば再び文学なり哲学なりにのめり込んだり、東京での楽しみを広げたりすることが容易にできるくらいには、それらについて知ることができたと思っている。

また、この一年間で僕は、少なからず明るくなることができた。未来に何の楽しみも待ち受けていないと感じているのにも関わらず苦しい努力を重ねなければならない現在ほど、この世界において絶望的なことはない! どうせ頑張っても楽しいことなんかないと思いながら大学に行くよりも、いま現在だけでもなんとか充実させようと決めた僕の判断は、賢明だったかどうかは分からないが、少なくとも「そうするしか他に方法がなかった」と言える選択ではあった。しかし今では、少なからず明るくなったことで、将来に対する期待を持つことが(いくぶん)できるようになり、朝起きて授業を受けてという単調な日々(おそらくそれなりに一人きりの日々)を耐えることができるくらいには前向きな人間になっていると思うのだ(あるいは思いたいだけなのか)。

人は、まさにその瞬間で自分が感じ考えていることを肯定できているとき、過去に自分のした選択をすべて悔いのないものとすることができる。僕はいま自分の内面について、ささやかではあるけれど満足している。だから自分のこれまでの二十年間を振り返ってみて、大きな間違いは何も犯さなかったと思うことができている。少なくとも、そう思おうと望めばそう思うことができるくらいに、僕はいま自由である。(この文章を書いているまさに今だけそういう気分に浸っているだけなのかもしれないが。)
「Aと考えるなんてばかのやることである、僕はもちろんBだよ」と言っているCくんは、じっさいAと考えるタイプの人間かもしれなくて、それを恥じているからむりやり「僕はBだよ」と自分に言い聞かせているのかもしれにあ。そういった心の動きは誰にでも多少あるのかもしれにあですねえ。

嫌いなタイプの人がいるとして、その人は実は自分のなかにある自分の嫌いな要素を押し広げたみたいな存在なのかもしれない。(僕の中に「前髪の重たい優男」がいるのかもしれない。)あるいは自分が心の底ではそうなりたいと望んでいるけど、それを押し殺すためにでっちあげている負の感情なのかもしれない。(本当は「前髪の重たい優男になりたい」と思っているのに、僕はそれをむりやり押し殺しているのかもしれない。そんなばかな、笑。)

自分の中にある、そういう種類の心の動きにはとりわけ詳しくなる必要がある。
前髪の重たいボーカルのいるバンドを好んで聴くような、前髪の重たい優男になんか、ぜっ、たい、に、なりたくないものだ!(注:例外はたくさんあります。あなたのことを言っているわけではありませんし、あなたの好きな人のことについて言っているわけでもありません。うそじゃありません。)

むだなこと!(孤独)

例えば、あなたには仲良くなりたいと思っている人がいるとして、しかしその人もあなたに対して同じような気持ちを抱いているかどうか、分からないとする。(しかも、単に仲良くなりたいと思っているかだけではなく、「同じだけ」仲良くなりたいと思っているかまで問われることもある。)「相手も自分と同じような気持ちを抱いているとしたら!」と想像するとき、自分の思っていることをすべて打ち明けたい衝動にかられるし、そうでないとしたら、自分の思っていることをほんの少し打ち明けることでさえ(小さな意思表示なりサインなりでさえ)あまりにも恐ろしい行動であるように思えてくる。

互いに快く思い合っているとしたら、それを打ち明けないことほどもったいなくて、ぐずぐずしていることほどこの世界においてむだなことはない。しかし、そういうものなのである、ほとんどすべての人間関係におけるさまざまな思索は!(『灯台へ』という小説で描かれているような思索。)そういったもったいなさは、僕たちの周りに、つねに前提としてあるのである。そして孤独であるということは、そういったむだなことの積み重ねの結果なのである。これはもちろん誰が悪いわけでもない。

僕が人間関係に対して諦め、悲しむというとき、「誰と仲良くなっても楽しくなんかないだろう」ということを悲しんでいるわけではなくて、いま書いたようなこと(互いに快く思い合っているときでもそれを知ることができないということ)を主に悲しんでいるのである。僕がいつもあれこれ悩んでいることは、ときとしてこの世界でもっともむだなことであるかもしれないが、それは考えるに足らないことでは決してない。深刻なテーマになり得ることである。
「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」てきな姿勢が、僕は好きではなく! だから赤信号を渡るときは一人で渡りたいのだ、絶対に。しかし大きな問題があって、それは「僕に赤信号を一人で渡る度胸はない」ということである。

2020/01/15

感じることの拡張

仮に僕がジャズを聴くことに憧れていたとする。(じっさいはそこまで憧れてはいないよ。)しかし当然いきなりジャズを聴いたとしても最初からその良さが分かることはないし、なんなら一生分からないんじゃないかという気さえしてくる。それでもジャズを聴くことに対する憧れを拭えないとしたら、僕はぐっとこらえてジャズを聴き続け、それによって感性を訓練させ、「感じることの拡張」をはからねばならない。

(心と形式をもちいて考えるならば、)こういうとき、まず形式から入らなければならないということになる。そしてあとから心が追いついてくる、つまり、じっさいに「ジャズを聴いて心地よい」と感じることができるようになるのを待たなければならないのだ。

しかしこのとき、一つだけ大切なルールがある。それは、形式から入ってまだ心が追いついていない間は、決してジャズを聴いていることを他人に言っては(見せびらかしては)ならない、ということである。あるいは言うとしても「ジャズを楽しめる人間になりたいから聴いているのだ」という言い方をしなければならない。(自分の気持ちに嘘をついてはいけないということである。)これを守らないとき、すぐさま「感じることの拡張」はストップする。それ以上の成長を望むことはできなくなる。「感じることの拡張」は、孤独の中でなされるものなのだ。

本、音楽、お酒、スポーツ、旅行…などなど(他にもたくさん)に触れることにより心を動かすこと(感じること)ができる人間であればあるほど、その人の人生は豊かになる(快楽主義?)。「感じることの拡張」は、人生を豊かにするために必要なことである。僕も精進しようと思います。(「考えること」もだいたい似たようなものだと僕は思っている。)

勉強と労働は人が生きていくために(お金を稼ぐために)必要ではあるが、人を感じなくさせ、考えなくさせ、生きていくことそのものの意味をも失わせてしまうから、注意が必要である。バランスを模索しなければならない。(勉強や労働から「感じること・考えること」を引き出すことができるならそれは素晴らしいことであるが、現状それができるほど恵まれた環境にいる人は少ない。「お金を稼ぐこと(ビジネス)」と「感じること・考えること」とは、基本的に相容れないのだ。利潤を追求すればするほど、人間は考えも感じもしないロボットになってしまうほうがいいのである。)

2020/01/14

想い

これは確かに
といえる想いに出会えるだろうか
大きな想い
強い想い
永遠でなくてもいいから

心を動かされることがある
身体の中で大きく膨らむ
それをすべて隠すことができたなら
自分だけのものにできたなら

向こう側にいるその人に
この橋は頑丈だよと叫んで
僕がうそつきでないことを祈る
おそるおそる近づいてくる
彼女は僕の言葉を信じるしかない

戸惑いがふたつ集まると火花が散るのだ
心を決めなくてはならない
確かな想いに出会わなくては
僕の書く文章はときどき自分を支えるために表現が「行き過ぎて」しまい、それを読む誰かを傷つけるかもしれないことがある。ごめんない。
僕はこう見えて「絶対に幸せになるぞ」と情熱を燃やしている。

好きなのか・そこまで好きでないのか

そこまで好きではない異性に対して期待を持たせるようなことはできない。しかし、そもそも自分はその人のことが「好きなのか・そこまで好きではないのか」の判断すら容易ではない。そこに葛藤が生まれる。

「好きなのか・そこまで好きでないのか」の判断を後回しにして、とりあえず「好きである」として仲良くし(つまり自分の気持ちに嘘をつき)、途中から「やっぱりそこまで好きではなかった、やめた」とするわけにはいかない。相手を傷つけることになるし、しかもそんなことをくり返してしまうとしたらそれはちょっとまともではないと思うからだ。きっと何かがすり減るだろう。

だから僕としては「好きである・そこまで好きではない」のはざまに立って、その「はざま」の状態をそのまま相手に伝えるようなことをしたいのである。過不足なく、正直に。でもそれはものすごく神経を使う。(それに僕は自分の気持ちに嘘をつくやり方が分からないのだ。演技をしたり調子を合わせるといったことが。それから、仮に自分と相手どっちも嘘をついていたとしたら、そこに生まれるコミュニケーションほど虚しいものはないとも思う。)

そして何より、心の中の状態をそのまま相手に示しているわけだから、じっさいの自分が表に出ているわけである。だから相手からもし拒絶されたとしたら、それはじっさいに僕自身が拒絶されていることになる。よって簡単に傷つく。(一方、自分の気持ちに嘘をついてふるまうときは、それが拒絶されてもそこまで傷つかずに済む。その代わり、相手を勘違いさせ傷つけてしまうリスクが大きくなる。)

僕が理想としているのは「傷つかず・傷つけず」であるが(それは恋愛に限らずすべての人間関係に共通して)、それを頑なに守ろうとすると、結局人と関わらないほうがいいよね、ということになってしまいかねない。

どこらへんで折り合いをつけるのがよいだろう? ①どれくらい一人になって、どれくらい人と関わるべきか。②どれくらい自分が傷つかないために自分の気持ちに嘘をついてふるまい、相手が傷つかないために正直でいるか。(僕としてはできるだけ正直にやっていきたいものであるが。)

(最後にひとつだけ書いておくと、自分が傷つかないために自分の気持ちに嘘をついてオーバーにふるまうことをしているくせに、それによって傷ついた相手に対して「勘違いするほうが悪い」と言い張る人が世の中にはいる。「それが大人になることだ」と主張するつもりだろうか? そういう人はどうやって最終的に幸せになろうとしているのだろうか? 安住の地は見つかるのだろうか?)

2020/01/13

正直さ・自由に感じ考えること

僕がふだん考えている「正直さ」とは一体どんな「正直さ」のことを言うのだろう? 単に「事実と違うことを言わない」というんではないのだ。僕も事実と違うことを言うことがある。

僕の言う「正直さ」には際限がない。本当か嘘かの二択ではなく「程度」の問題なのである。白か黒かではなく、グラデーション。正直であろうと努力すればするほど、それだけ正直になることができる、といったものなのである。

自分の中にあるもの(自分が何を感じ、何を考えているのか)をできるだけ詳しく把握し、もっとも適した言葉に置き換えること。それを僕は努力しているのだ。言葉を用いる時点で百パーセント正直であることは不可能である。でもしっかりと、自分の中にある汚い部分にも目を背けずに考えれば(何パーセントかは分からないけど)かなりの正直さを保つことができる。

一番怖いのは、勝手に口が喋っていることである。考えもしないのに、その場に適した言葉を勝手に口にして、しかもそれがまさに自分の感じること、考えることであると錯覚してしまうことである。

(官僚の人たちを一概に悪く言うつもりはないけど、)僕がいま想像するのは「官僚的やりとり」である。心より先に形式があって、形式が心を踏み潰すのだ。人を感じなくさせ、考えなくさせる。イメージや体裁がすべてになる。他人からどう見られているかがすべてになる。

しかもその他人というのは、具体的に自分が大切に思っている人たちのことではない。もっと漠然とした不特定多数である。それは社会的なものであって、もはや人でさえないのだ。

黙っているとき、人はもっとも自由にものを感じ、考えることができる。それを誰に表明するわけでもないで感じること、考えることが、もっとも自分にとって「本当らしい」ものなのだ。自由とは心の中に築くもの、内側から湧き出るものである。

2020/01/12

どういうわけか、メール機能が機能していなかったことが分かりました。大変なことです。これまでメールを送ってくれた人がいるかどうか僕には分かりませんが、もしいらっしゃったらすみません。ma2.tiger.1999(アットマーク)gmail.com にメールしてください。すみません。

2020/01/11

何か言おうと前もって心の準備をしていればいるほど、何も言えなくなる。言えたとしてもぎこちない感じになってしまう。いつになったら僕はぎこちなくなくなれるのだろうか。どんな顔、どんな声で言えばいいのか分からなくて、黙ってしまうことが多い。
神経がゆるんだ状態が好きである。誰からも見られていない、やらなきゃいけないこともない、次の予定もない。朝起きたとき二階の大きな窓から差し込む太陽の光をじっと眺めたり、台所にある椅子に座ってゆっくりビールを飲んだり、灯油ストーブの近くにあるソファに寝転んでひたすら深呼吸したりできる。

人と居合わせているときは違う。いつでも呼びかけに反応できるように準備していなければいけないのだ。神経を張り詰めていなければいけないのだ。やらなきゃいけないこと、次の予定があるときも同じで、時間というものに気を配っていなければいけないのだ。警戒していなければいけないのだ。僕はそういうことがかなり苦手なのだ。

2020/01/07

政治や社会について怒りを持つ。しかし、それのために自分の生活を台無しにしたり、自分の脳みその中まで悲観的にさせる必要はないし、そうであってはいけない。もしそんなことになるとしたら、闘いながらすでに敗北していることと同じだ。何かを否定することは、それとは違うまったく新しい何か(自由を思わせる何か)を自らの中に築くためだけに許されることだ。最終的にはすべて、自分の中にある自由へと向かって(収束して)いかなければならない。反戦・反原発・反権力もすべて、内的自由を支える思想の一部でしかない、べきである。
一人きりの、あるいは二人きりの「秘密の生活」というものをよく想像する。一人きりか二人きりになって家にこもるか、人がいない田舎に行くか、異国の地を踏むかする。生活のすべてが第三者には隠されている。僕が(あるいは僕らが)一体どこで何をしているのか、どんな表情をしどんな仕草をするのか、誰も知らない。

強く心に決めていること

いま強く心に決めていること、それを(何年後でもいいんだけど例えば)十五年後もまったく同じように強く心に決めていられるかというと、それは難しい。ただ、十五年後の自分がいまの自分を振り返ったとき、笑い飛ばして突き放すような人間にだけはなりたくないと思う。いまの自分を心に含んだ状態で、いまの自分よりも大きな存在になっていたいと思う。

「あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりする」のを、力の及ぶ限りしないこと。それを守らないとき、僕は自分のほとんどすべてを失うと思う。僕は僕と関わりを持つすべての人たちに対して「この人のすること言うことは、間違いなくこの人の感じること考えることである」という確かな実感、安心感を与えたい。

誰かが誰のことも信じられなくなっているとき、僕だけは信じられるに値する人間でなくてはならない。人が僕に対して「どれくらい求めてもよいのだろうか」と戸惑っているとき、僕がじっさいに与えることのできる量を、過不足なく相手に伝える努力を怠らない人間でなくてはならない。

とにかくそれがいま心に決めていることである。強く心に決めていることである。自分の中にある「正直さ」のために苦しい寂しい貧しい思いをすることになったとしても僕はいっこうに構わないし、この「正直さ」のために緊張し狼狽し傷つきふさぎ込むことを繰り返さなくてはならないとしても僕はそれを受け入れる。確かな存在でいること、それを何よりも望んでいる。

2020/01/06

人生の色合い

暗闇の中か、宇宙か、砂漠か分からないけれど、そういう「何もないところ」の中に一人きりで立たされている、というのが、もともとの人間の状態である。「何もないところ」とは、現に僕たちが生きているこの世界のことであったり、自分自身のことであったり、人間一般のことであったりする。

その場所で僕たちは、解決されることのないあまりにもたくさんの疑問に押し寄せられ、混乱し、怯えている。この混乱と怯えは誰のせいでもない、もともとあるものである。しかしそれが分からない人たちは「それらは隣にいる人のせいである」と思い込んで、意味なく憎悪し傷つけたりするのだ。



人生の多くの時間、僕たちは「何もないところ」で混乱し怯えているか、あるいは、たくさんの疑問が湧いてこないくらい他のことに時間とエネルギーを費やすことによって問題を先延ばしにするかしている。

それでもときどき(人生のうち数回)は、そういった疑問をすべて燃やし尽くすくらい強烈な喜び(太陽みたいなもの、快楽?)がもたらされる瞬間があって、そのときだけ「何もないところ」にいる自分をすっかり忘れることができる。

そして最後、ふとしたときなどに、それまでに味わった「『何もないところ』に立たされている混乱や怯え」と「すべてを燃やし尽くすくらい強烈な喜び」のふたつの体験を同時に思い出して、懐かしみ、この世界と自分自身に対しての「愛着」を感じることができるようになる。「すべてよし」と思うことができるのだ。それは強烈な喜びとは違って、静かな日常の中で感じることのできる幸福感である。

2020/01/02

分かり合えない領域

感情を認めつつ、それとうまくやっていくことは難しい。僕はたまに自分の感情でいっぱいいっぱいになってしまうので、そういうとき、誰からも干渉されたくないと思う。人に会いたくないし、ラインも見ない。我慢するため、ものを考えるために一人きりになる。誰の助言も慰めも無意味に思われ、むしろ煩わしさしか感じないだろう。

そして僕は、逆に、そういう人(自分の感情でいっぱいいっぱいになっており、ほとんど誰の好意も受け入れることができない状態にある人)を前にして、途方に暮れたこともある。それはそれで悲しいものである。今では僕は、そういう人を前にして、かつ、その人が求めるものをこちらが差し出すことはできないだろうと思うとき、無関心を装うようになった。

人と人との関係には、いつもこういったところがある。誰も悪い人はいないのだが(みんなそろいもそろって優しいのだが)、誰も自分以外の人間のこころの中心部分にたどり着くことはできないのだ。あるいは一時的にはできたとしても、長くは続かない。人との関わりの中で得られる癒しには限界がある。それより先は、ただ自分ひとりだけの領域である。

こういうことを考えながら僕は、布団の中に一人きりでいるときなど、全世界の人たちに向けて、心の中でひそかに励ましを送りたくなってみたりする。でもそれだけである。実際のところ僕は、人間関係にあまり期待ができないまま、冷たい態度(とまではいかなくても、取り付く島もないような態度)をあらゆる人に対して取ってしまうのだ。

「みんな僕と仲良くしてください」なんて、口が裂けても言うことはできない。助けを必要としているときもあるけど、全然平気なふりをするしかないわけである。ただ自分ひとりだけの領域で、誰にも気付かれないまま耐えていることしかできることはないのだ。しかもそれは、僕(やあなた)だけにではなく、ほとんどすべての人に多かれ少なかれ背負わされている重荷なのである。ここまで分かっていてもなお、どうすることもできない、分かり合えない領域があるのだ。

2019/12/31

「思う・口にする」の研究

人間には「思うことを口にして、それを人に聞いてもらいたい」という欲求がある。しかしその「思うこと」がつまらなかったりすると誰にも聞いてもらえないし、不快だと人を不快にさせるし、ダサいと人からダサいと思われる。だから人は思うことをなんでもかんでも口にするわけではない。

だからときとして、「思うこと」と「それを口にすること」との間には途方もなく長い長い距離がある。「何も喋らない人」は「何も思わない人」ではない。「思うこと」は止まない。その人にとって「思うこと」と「それを口にすること」との間には、物理的には頭から口までの距離なのかもしれないが、実際には、一人の人間を誰からもその存在が気付かれないくらい遠くの宇宙に放り投げてしまった、くらいの距離があるのである。

「思う・口にする」の研究は、すなわち「孤独」の研究である。思うことを口にしないよう我慢することは、孤独に耐えることと同じことである。しかし見方を変えれば、それは「秘密」の研究であるとも言える。口にされなかったことはすべて「秘密」となって、その人だけのものになるからだ。

「孤独」は楽しくない。でも「秘密」を持っているということは、ちょっと楽しいものである。少なくとも僕はそう思えるときがある。たくさん黙った末に手に入れることのできた「秘密」は、いつか誰かと(少ない誰かと)親密になるため最大限に利用されるのだ。

人は「秘密」を共有することで、誰かと親密になることができる。公的な空間(人がたくさんいる場所)では言えないようこと、見せないような一面(それが「秘密」)を、ごく限られた人にだけ明かし、その人と自分との周りを私的な空間に作り変えてしまうことによって、人は誰かと親密になることができるのだ。

誰かと深く結びつくためには、それだけたくさんの「秘密」を必要とする。思ったことを口にしないで黙れば黙るほど、それだけたくさんの「秘密」を抱えることになり、それだけ深くいつか誰かと仲良くなることができるのだ。したがって、「孤独」は確かに楽しいものではないかもしれないが、「秘密」を持っていることはちょっと楽しい。「秘密」はちょっといいものである。

2019/12/30

切実さがある

あらゆるところにい
あらゆるものを見
あらゆることをしてきた女
世界がなんたるかを知っているが
何も言わない
大小さまざまなたくさんの列車が
彼女の心と身体に入り込み
そのまままっすぐ突き抜けてしまった
そして何も残らなかった
きれいな空っぽだけが残った
それが悲しいことであるのかすら
彼女には少しも分からなかった

心は柔らかく弱いもので
機構は硬くて強いもので
ふたつの仲介をするのが身体なのだとしたら
健康でいたいと僕は思う

科学者によると人間は
宇宙をさまようちりあくたである
血のつまったただの袋である
そうだよと合点している人たちは
強がりの知ったかぶりのインテリやろうで
ひとり寂しく死ぬ勇気なんてないくせに
口だけは誰にも負けないらしい

切実さがある
人間には切実さがある
助けて!と叫ぶ内側からの声
身体はそれを押し殺し
なかったことにする
機構に顔向けできないからだ
しかし彼女は叫ぶこともしなくなった
きれいな空っぽに切実さはない
理由のない涙だけが頬をつたい
偽りのない感傷だけが彼女を包み込む
それが悲しいことであるのかすら
彼女には少しも分からなかったが

2019/12/26

素晴らしい二十歳の日々を送っているし、これからの二十代も(少なくとも半ばまでは)自分ではない人や物がすごい速さで自分を通過していって、頭が追いつかなくなるような、そういう「良くも悪くも典型的な二十代」を生きるだろう。

楽しいこともあるし、ごくまれにものすごく楽しいこともあるが、だいたいは苦しい、そういう配分でたぶん人生は進んでいく。何はともあれ進んでいく! 楽しいことも苦しいことも過ぎ去ってしまえば、残るは「うっすら楽しい」という気持ちだけになる。

悲観的になるのは間違っている。だとしたら、どう間違っているのだろう? でもえらい人たちがみんなそう言うから、言われた通りにやってみようと思います。川の流れに逆らう牛のように、大きな力でじりじりと進んでいくようなイメージ。いつも心に情熱を持っていて、人からはそれが分からなくとも、つねに体を光らせているような、そういう意識ですべてに臨みたい。

「悲観的になるのは間違っている」と言って、それが言葉だけではなく、本当にそれを僕自身が証明しているような、力強くて賢い人間にならなければならない。
ちょっと違った文体で書こうと思ったりするんだけどうまくいかない。分かりにくくなるだけだなあ。

悲観的になる

一度でも悲観的な時期をくぐり抜けると、その後どんなにたくさん「楽しいこと」が起こったとしても、それは人生を隙間なく埋めるほどに用意されているわけではないから、悲観的な時期に経験した「不安と孤独」は、その「楽しいこと」と「楽しいこと」の合間を縫うように思い出され、そのせいで、悲観的になる「くせ」がついてしまうことになる。そうして人生の色合いが暗くなる。「人生」というものに抱く印象そのものが大きく変わってしまう。こうなってしまうと、人生は、もう二度ともとの明るさに戻ることはないらしい。

「不安と孤独」は、心が空っぽになったときを狙って入り込み、一気に広がる。そして、人生に意味はあるのか? とか、誰か一人とでも心の隅々まで理解し合うことはやはりできないのだろうか、もしできないとしたら、人はそれに耐えられるだろうか? さらには、そもそも本当にそういうことを知りたいのだろうか、(やたらめったら「死」について考えたがる学生のように)どこかで耳にした疑問を並べたてて、それを自らの「不安と孤独」の代わりにしているだけなのでは? といった、あまりにもたくさんの解決されることのない考えが押し寄せてきて、もう、手の施しようがなくなってしまう。

誰かのことを思ったり何かに向けて努力したりすることが、それ自体の素晴らしさのためにあるわけではなく、心が「不安と孤独」でいっぱいになってしまうこの時間を何よりも恐れるあまり、心を空っぽにする隙を作らないことが目的なのだとしたら、「人生は明るいものである」と考えることなんてとうていできない。「悲観的になることは間違っている」と心の底から思わせてくれるような、エネルギッシュで力強い励ましがほしい、といつも思っている。
ビートルズいい… ビートルズ好き!

2019/12/23

大きな知性

たくさんの偉大な人たちとおなじように
「あなたが生きているそれだけで
あなたには大きな意味があるのだ」
とは言い難い
そこまで大きな知性が僕にはまだない

でも
そういう悲しい世界の仕組みに
静かに怒って
考えて
抵抗したいと思っている
たくさんの偉大な人たちとおなじように

間違ったことを言うきれいごとが大嫌いだ
たくさん裏切られた
物事はみなちぐはぐだった
本当のことを言えば
僕は半分
諦めている

でも
残りの半分で
真実なきれいごとを探している
たくさんの偉大な人たちとおなじように
残りの半分で
大きな知性を予感している
彼女の言ったことは間違っていると

いつかいつの日か
エネルギーは湧いてくるのだろうか
期待を胸にゆれている
政治家を軽蔑しても、政治は軽蔑しない。「政治的であること」を軽蔑しても、政治は軽蔑しない。(言葉のもんだいか…?)

僕たちが軽蔑すべきは「政治ゲーム」であって、「ほんとうの政治」は(あるいは「ほんとうの政治」とは何か?という問いは)軽蔑してはならない。二人以上が集まれば、そこには(ある種の)政治がある。一人きりで生きていくことのできる人間は少ない(寂しいので)。

前提としての反権力

頭が良くて、かつ「自分が正しいとは限らない」ということを、ちゃんと心の底から思うことのできる人、というのは非常に少ない。僕はかつて自分が正しいと思っている大人たち(大人たちはたいてい子供よりも自分の方が正しいとか思ってしまうのだ)に心底むかついていたので、そうはなりたくないと、事あるごとに「なにが正しいとかは分からないんだぞ」と自分に言い聞かせて、自分なりに頭を訓練させてきた(それでも「僕は正しい!」と思うときは当然あるのだが)。

「なにが正しいとかは分からない」世界においては、弱い立場にいる人を守る意見の方が、そうでない意見よりも、ただその意見が弱い立場にいる人を守るものでしかなかったとしても、はるかに正しい。だから僕のやるべきことは、①誰が本当に弱い立場なのか、自分の持っている限りの知性を働かせて見極めること(例えば、路上で歌う女性シンガーソングライターに罵倒をするおじさんが、いかに社会的に弱い立場にいるか、考えてみてほしい。では、誰が(何が)本当に強いのか? 問題は深い)、そして②弱い立場の味方をすること、である。

力関係を度外視して、上から「正しさ」を持ってくるやからがたくさんいる。彼(彼女)らは言葉しか見ない。しかし、言葉ではどうとでも言えてしまうものだ。賢いだけの人は、力の強いものにさらに力を与えるような都合のいい理屈を、言葉をもて遊ぶことで、いくらでもでっち上げてしまうことができる。

僕の根底にある考えは「反権力」である。(おなじ村で暮らさなければいけないのなら、)権力は、その「正しさ」に限らず、その力を弱めるべきであると思っている。僕は自分が誰かに怯えることを「よし」としないし、僕が誰かを怯えさせることはもっと「よし」としない。僕は権力ある人の意見を鵜呑みにしないし、僕自身が権力のある人になりたいとも思わない。誰の信者にもならないし、誰も自分の信者であることを許さない。

僕たち一人一人がものを考えなければいけないのは、ものを考えなければいつの間にか権力のある方に流されてしまうからだ。(「政治に文句があるなら自分が政治家になればいいだろ」というセリフは、いったい「誰が」最初に言い出したのだろう?)
僕くらい伝統的な(そして立派な?)青年期を過ごしている人間もあまりいないのではないか? 退屈で、(たいていは)一人きりで、たくさん考え、本を読み、堕落し、ものすごく暗くなったりマシになったりする。

もうなんか、いろいろなことが自分を突き抜けてしまった。なにがなんだか分からない、というのが一番の感想である。もう、とりわけなにも言いたいこともない。誰かに熱を込めて「これが好きだ」とか「これは正しい」とか言って回りたい!と思うこともない。

ふむ、とにかく野心がない。エネルギーがない。よくない。ふむ、なにかを決めよう! しっかり期待しよう! やっぱり僕は、ものを書いて生きていこう。「ものを書く」くらい漠然としかまだ決めない(あるいは言わない)ことにする。(「決める」と「言う」はほとんど同じことなのだ。)

あと僕はきっと家事ができた方がいい。なぜなら仕事ができないからだ。仕事も家事もどっちもできないのは、(それを帳消しにする何かしらの才能が僕にはないだろうから)とてもよろしくない。

さしあたって僕の今の憧れは、学校にも仕事にも行かず、しかしそれでいて堕落していない、一人きりで(も)しっかり生活できる人たちである。彼(彼女)らは決まって朝に起床するのだ。学校と仕事はそのあとだ! 人生は長い、まだまだ猶予期間は残っているよ!

2019/12/19

『犬は吠えるがキャラバンは進む』を聴くと、半年くらい前それを聴きながらたくさん夜の東京を歩き回った記憶が蘇って、半年しか経ってないのに、すでに懐かしい気持ちになってしまう。

ここ二年くらいの間だが、僕はものすごいスピードで変化しているため、半年前でも三年前(高校入学して卒業できるほどの期間)みたいな懐かしさを感じる。二年前だともう十二年前(小学校入学してから高校卒業するまでの期間)みたいな懐かしさを感じる。あらゆることを考えては考え終わり、考えては考え終わりを繰り返しているうちに、ほとんど僕は別人になった。

この『犬は吠えるがキャラバンは進む』は、実に「渋い」アルバムである(どこかで誰かがそう書いていたような)。そして「思想的」である。ところで、ジョン・レノンの『ジョンの魂』というアルバムもまた「渋い」(これもどこかでそう書いてあったような)。そしてやはり「思想的」である。どちらもほとんど装飾のないシンプルな音だから、一回聴いただけで分かりやすく「いい!」とは思わないだろうが、長い目で見れば一番たくさん聴くことになるタイプのアルバムである。そしてこの二つには、バンドを解散してソロになってから出した最初のアルバムである、という共通点がある。

この二つのアルバムは、良いこともあれば悪いこともある「人生」を平均化したとき、それと最も近い「肯定と否定のバランス」を表現している、心地の良い、「良い」アルバムだと思う。(『ジョンの魂』の方は卑屈な感じが多少あるから、ちょっと否定的要素が強いかもしれない。『イマジン』だともう少し明るくなる。)
最近ハマっている曲。
バック・イン・ザ・U.S.S.R.
Our House (クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング)



人… 怖いと思うし、でも仲良くなりたいと思うし、でもたいていは一人きりでいたい、誰からも認識されたくない、そうかと思えば本当に寂しい。どうしようもない。

2019/12/17

心を水晶に例える

人間の心を(占い師が手をかざしたりのぞき込んだりしているような)まん丸の水晶に重ね合わせて考えてみる。そして「感情」や「思考」といったもの(広く言えば「意識」)は、水晶の表面に映った模様のことである、と想像してみる。われわれは自分の水晶をどんなに注意深くのぞいてみても、その表面に映った模様を見ることしかできず、その中に何が入っているのか、模様を作り出しているものそれ自体の正体はいったい何なのかを知ることは決してできない。

一つの疑問が浮かんでくる。水晶の中には実は何も入っていないのではないか? 模様はただそれ自体として水晶の表面にあるだけで、それをもっと本質的な「何か」が作り出しているメッセージであると考え、模様からその「何か」について解釈したりすることには何の意味もないのではないか? と。

もしそうだとしたら、大変なことである。例えば、誰かを「愛してる」だとか「尊敬している」といった(一般的には)価値があるとされている気持ち(いわゆる「心のこもった」気持ち)と、「この料理おいしいな」や「眠いな」といった些細で気まぐれな気持ちとは、まったく同程度の価値しかないということになってしまうのだ。どちらも、ただ、そのとき水晶の表面に映っていたというだけであって、その人自身に固有の、その人自身の中にある「永遠不変のもの」から発せられているというわけではない、ということになるのだ。

僕たちが「人を信じる」というとき、僕たちはその人の発する言葉や、その人の行動といった「表面的なもの」について考えているのではなく、その人の一番内側にあるものについて、つまるところ「水晶の中身」について考えているのだが、それが「ない」となると、僕たちは他人に対して、そして自分自身に対しても、何も信じることができなくなってしまう。信じるべき対象がそもそもないからである。

それならそれでいいじゃないか、と思うことができれば何の問題もない。しかし、それで本当に耐えられるだろうか? 自分の心は単なる気まぐれの連続であるし、自分のことをよく思ってくれている人の心も、ただ、今はそういう気持ちになっているというだけでやはり気まぐれだし、ふとしたきっかけで消えてしまうような儚いものであるとして、納得できるだろうか? 人との関わりの中で感じる「親密さ」には何の意味もないということになってしまうのである。

2019/12/16

ツイッターを(強い意志を持って!)やめてしまうことにした。僕が自分のアカウントにログインすることはもう滅多にないだろうから(全くないかどうかは分からない)、僕に用がある人はメールをするか何かしてください。とてもいい!に見てもらいたい、というひそかな動機から何かをツイートするという人がもしいれば(そういうツイッターの使い方以外に、つまり、特定の誰かに自分のツイートを見てもらいたい、というツイッターの使い方以外に、どういうツイッターの使い方があるだろうか、と思うことがある)、すみませんが僕はそのツイートを見ることはないと思うので、何か他の方法を使ってください。

僕はますます内向的になりつつあるので、期待されたときに期待された反応をしたり行動をしたりすることが減っていくかも分かりませんが、許してください。僕の気が向くのを待つか、諦めるかしてください。できれば、長い目でお付き合いください。

このブログはちゃんと更新するつもり。どんな人もここに来さえすれば、僕の安否確認ができるというわけです。また、この場所で僕はできる限り自分一人きりになったつもりでものを書いています。このブログ上に見られる僕は、ほとんど「特定の誰か」に対して無関心です。そういう意味で、このブログを書いている僕は誰に対しても公平中立です。このブログをのぞく際は、一人集中して絵を描いている人を遠くから眺めている、といった印象を受けてください(?)

2019/12/12

『灯台へ』を読みながら

ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』、すごく好きだ。読み終わる前からここにそれを表明したくなるくらいに……。自分は何かを「好きだ」と表明することで「こびてる」わけではない、と信じたい。読み終える前からこういう文章を書いてしまうこと自体がすでに怪しいけど。「好きだ」と表明することに満足してしまって、それをしなかったら失われることなく持ち続けられたかもしれない「ほんとうの関心」みたいなものが少しでも失われてしまうのだとしたら、それは嫌である。こういう文章を書くことが、この本を自分の中で半ば終わったことにしてしまうのだとしたら、書かない方がいい。けど、書いてしまう。「何かを好きと表明すること」に関わる葛藤みたいなものを、これを機に文章にしたかったから!(という言い訳を用意して。)

でも、ちょっと読んだだけでも分かるくらいに、この小説は僕の中にあるものとすごくリンクしたのです(そう思う)。それは、この小説が「意識の流れ」という技法を用いて書かれていることと深く関係があると思っている。僕はこれまでずっと、文章を書こうと思うときには「自分が感じていること・考えていること」だけを題材にするしかなかった。それは、僕が日々をたいしたイベントもなく過ごしているため「今日こんなことがあってさ」みたいなことを題材にすることができなかったからである。この小説も、話の筋を読ませることではなく、登場人物の「感情の揺れ」や「一貫性のない思考」をそのまま垂れ流しにしたみたいな書き方(それが「意識の流れ」)が大事なのであって、それは、ふだん僕が文章を書いているときの書き方に近いものがあると思う(もちろん僕の方は全然洗練されていないんだろうけど)。

これは、大きく頷きたくなった一節。「まったくどう考えればよいのか。人を判断し評価するとはどういうことなのか? あれこれ考え合わせて、好き嫌いを決めるためには、どうすればよいのだろう。それに『好きだ』『嫌いだ』っていうのは、結局どういう意味なのか? 梨の木のそばに釘づけにされて立ちつくしていると、二人の男性のさまざまな印象が降りかかってきて、目まぐるしく変わる自分の思いを追いかけることが、速すぎる話し声を鉛筆で書きとめようとするのにも似た、無理な行為に思われてくる。しかもその『話し声』は紛れもない自分自身の声で、それは否定しがたく、長く尾を引くような、矛盾に満ちたことを次々と言い募るのを聞いていると、梨の木の皮の偶然の裂け目やこぶでさえ、どこか永遠不変の確乎としたもののように感じられた。」

テロル的思想・深い内省

「N国党」について僕が考えたことは、「彼らは、虐げられてきた人たちが『社会に対して自らを正当化する』という無意識にある動機から、『社会は間違っている、自分は正しい』という偏った考えを育て上げ過激化していった、テロル的思想を持った集団である」というものである。彼らは、自分たちが何を感じ、何を考えているのか、本当には何も知らないまま過激になっていくのである。彼らは自分たちが何をしたいのか、何を言っているのか、何をしているのか、知らない。

「社会を批判する者は、それと同時に、深い内省をしなければいけない」というのは、僕がずっと考えてきたことである。自分の中にある「悪」や「ごかまし」「コンプレックス」に対して無自覚な人間が、どうして他人や社会に対して批判的になる資格があるだろうか。『万延元年のフットボール』に出てくる、「社会に受け入れられていない」タイプの人間であり、革命思想を持った「鷹」のことを思い出す。

「正しいことは自分の外にあって、それに従っていればよい」という考えは一切捨てて、僕たちは考え続けなければいけない。「深い内省」をしなければいけない。自分がこれまでどういうことに傷つき、どのようにそれを克服しようとしているのか、するべきなのか、徹底的に自覚し、考えなければいけない。

それは「地に足をつけて」考えることである。神にも、神を非難するあらゆるイデオロギーにも頼らず、真に「人間の地平にとどまって」考え続けることである。内側にしか答えはない。答えを探そうと外側に向かっていって、そこでいろいろなものを見ることは良いことである。しかし、最後は、自分自身が考えたことにどこまでも忠実でなければいけない。それは、『魔の山』の主人公であるハンス・カストルプが、セテムブリーニの持つインテリ的いかがわしさにも、ナフタの持つ退廃的いかがわしさにも(彼らの影響を受けつつも)誘惑されず、最後は自分ひとりの力で〝愛と善意〟のヒューマニズムを体感したのと同じように。

そして僕は、「虐げられた人たち」を作り出すのは社会である、ということも知っている。「虐げられた人たち」がテロル的思想を持ってしまうことの責任は、「深い内省」を疎かにした彼ら自身にあるわけではなく、やはり社会にあるのだ、ということを知っている。(あるいは、誰にも何にもその責任はないのかもしれない。)

2019/12/10

太陽の夢

なんの抑制もなくわんわん泣きたい
そしてそれを人に見られたい
そしたらその人は僕のところにやってきて
大きなハグをしてくれる
それで僕は安心して眠ってしまうのだ
夢を見ると思う
つらい夢ではないと思う
目が覚めたとき僕の輪郭がゆれてしまうような
戸惑いの夢ではないと思う
太陽の夢だと思う
ためらいがちな太陽の夢
まぶしい光を放つことを遠慮してる
優しいんだなきっと

本当の心に決めた人の腕の中で泣きたい
いつか
そのときのためにこそ
涙は一滴たりとも流さないのだ

平然としている
人は僕のことを薄情なやつだと思う
冷たいやつだと思う
情と熱のないやつだと思う

それもこれも
きたるべきときのための鎧なのだ
涙はある
涙はちゃんとやってくる

いつかきっと
自分の中にあるものを丸ごとぜんぶ引きずり出して
ひとりの人間に差し出すときがくる
不安と戸惑いのない心地よさに出会うときがくる

そのときのため
きたるべきときのためなら
ひとりの夜も耐えられる
孤独はただの伏線でしかなくなってしまうのだから

スーパーマンと神様

スーパーマンは「愛」と「善意」の象徴である。「愛」と「善意」をキャラクター化したものである。スーパーマンになりたいと思うことは、真実の「愛」と「善意」を持った人間になりたいということである。

しかし、僕たちは誰もスーパーマンになることはできない。というのは、「愛」と「善意」は、言葉が与えられて初めてその存在が認められている概念でしかないため、それらの象徴であるスーパーマンもまた、現実世界に存在することのできる人間ではないからである。りんごとはわけが違うのだ。(りんごも「りんご」という言葉が与えられて初めて存在し始める概念である、という難しい考え方もあるらしいけど。)

それらに言葉が与えられているのは、それらが間違いなく存在していてほしい、という世界中の人々の「願い」があってこそなのだと思う。そこから、それらと反対の「憎」や「悪意」あるいは「偽善」といった言葉も作られ、作られると同時にそれらの概念もまた存在するようになる。したがって、スーパーマンは「願い」に中にしか存在できないし、スーパーマンをスーパーマンたらしめる悪役もまた「願い」の中にしか存在することができない。

僕たちの心の中には、誰しも「愛」「善意」「憎」「悪意」「偽善」などの言葉で表現されるものの全てが含まれているのだが、これは実際には、そういった言葉で表現することがナンセンスなほど心の中は混沌としているということを意味する。混沌とした心の中にあっては、「愛」と「憎」、「善意」と「悪意」、「善意」と「偽善」の境界もなくなっている。

誰もスーパーマンになることはできないというのは、誰の心の中も混沌としていて、スーパーマンのような無垢さを持っている人間などいない、ということの言い換えである。自分の中にある「愛」や「善意」を無垢なものであると信じすぎる人間は、それらのために暴力をふるったりすることもできるけれど(例えばスーパーマンが悪役を倒すときのように)、その暴力が正当なものであったかどうかの評価は、その人のいる環境や時代に影響を受けるだろう。あるいは、暴力をふるった後の状況に影響を受けるだろう。自分では「愛」や「善意」であると信じて行ったことも、それは「憎」「悪意」「偽善」でしかない、という評価がくだされるかもしれないのである。

環境や時代、状況に左右されない絶対の評価をくだすことができる唯一の存在、それが神様である。だからスーパーマンは神様のご加護を受けている存在なのである。そしていま「神様は存在するのか」という問題がある。神様が存在しなければ、「永遠の愛」すなわち「真実の愛」を誓うこともできない。なぜなら「真実の」という形容詞が意味をなさなくなるからである。(そしてビーチ・ボーイズの『神のみぞ知る』は名曲なのだ…。『カラマーゾフの兄弟』は未読なんだけど、ここらへんのテーマと関係しているのではないかな、と予想している。神が主要なテーマになっているらしい。)

2019/12/08

ゆれる

いいよ
いやだね

分かるよ
分からないなあ

うまくいきそうだよ
だめなんじゃないかしら

部屋にこもる

世の中にはすでに
たくさんの言葉があふれている
なにをいってもそのどれかになってしまい
僕は黙る

言葉はこころを
ざっくりとしか表現しない
それはピザを切り分けるようでしかなくて
僕は黙る

たくさんの人たちが
湯水のように言葉をたれ流し
たくさんの「正しさ」を並べ立てるのを聞く
僕は黙る

黙ってくれないか
自分にいう
くだらないことをいうくらいなら
黙ってしまわないか
自分にいう
どこかで聞いたこと
思ってもいないこと
偉そうに口にしやがる壊れたラジオと
おんなじになりたくなければどうか
黙ってしまえ

黙ると僕はいなくなる
それは部屋にこもっているようなものである
誰にも知られない
誰にも気づかれない
ひっそりとしていて
じめじめとしていて
暗いニヒリズムのたちこめる
部屋

正直なこと

僕は、「正直さ」が最後のとりでであるような気がしている。それはいついかなるときも嘘をつかないとか、演技をしないとか、そういうことではない。ただ、「正直に話そう」と望めば、話すべき「正直なこと」を自分の中にちゃんと持っている、という意味である。

自分の中にある、他人には言えないようなこと。それらをうかつに口に出したら人から軽蔑されるかもしれない、非難されるかもしれない。しかしそれらは、他人には言えないというだけで、多くの人が少なからず頭の中に持っているようなことだったりする。それをあたかも「自分はそんなひどい・汚い考えは持っていない」かのようにふるまい隠蔽することは、最終的にその人自身を苦しめることになる。

「ひどい・汚い考え」も「きれいな考え」も全部含めた「正直なこと」を、僕は自分の中にちゃんと持っていたいと思う。自覚しておきたいと思う。話すべきときにそれを話して、他人と共有できるような「正直なこと」を、一人きりでいる時間にしっかりと用意しておきたいと思う。そういう「正直さ」だけが人と人との結びつきを作ってくれるのだと、僕は信じているからである。

2019/12/07

快楽主義とヒューマニズム

最近、快楽主義とヒューマニズムについて考えている。カミュさんは「愛についてぼくの知るところは、ぼくをあるしかじかのひとに結びつけるあの欲望と優しい感情と知力の混じりあったもの、ただそれだけだ」と書いている。さて、「優しい感情」とはいったい……。

人生に目的なんてものはないし、人間や世界にも意味はない、と仮定しよう。それでも間違いなく僕たちは考えたり・感じたりする。つまり美味しいものを食べたり、寝たり、「ぼくをあるしかじかのひとに結びつけるあの欲望」を満たしたりする。本を読んだり旅行をしたりすることで、知的好奇心を満たしたりする。

だから、こういったことの総数を増やしていくこと、考え・感じることの体験を大きくしていくことが(矛盾しているようだが)人生の目的であると思い込んでみて、それらを大きくするために自らの知性を使えばよいのだ、と考えて、たいした問題はないように思われる。が、どうだろうか。(しかしこれだと結婚はなんのためにあるのか分からない、という問題が出てくる。結婚は、考え・感じることの体験を大きくしてくれるのに「効率的」ではないような気がするのである。いやな言葉を使った。)



(資料?として。)『異邦人』の主人公ムルソーについて、カミュさんはこう言っている。「……母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮す社会では、異邦人として扱われるよりほかはないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったのか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。ムルソーは外面から見たところとちがって、生活を単純化させようとはしない。ムルソーは人間の屑ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする真理は、存在すること、感じることの真理である。それはまだ否定的ではあるが、これなくしては、自己も世界も、征服することはできないだろう……」(ところで、ホールデンも決して人間の屑ではない。)

2019/12/06

「精神的引きこもり」という言葉を考えました。「引きこもり」と違ってちゃんと外にも出るし、場合によっては学校や職場に行って人と話したりさえするけど、「精神的には」引きこもっている人のことを言います。あるいは「精神的隠遁者」と言ってもいい。それから「精神的引きこもり」は SNS もしません。ツイッターなど、もってのほか!

僕はと言うと、「ああ、もう! 『精神的引きこもり』になってやる、ばーか!」と思うときがときどきあるくらいで、厳密には「精神的引きこもり」ではありません。でも、なんびとも百パーセントの「精神的引きこもり」にはなれないし、ゼロパーセントの「精神的引きこもり」にもなれない、その間なのである、ということを踏まえると、今の僕はわりと「精神的引きこもり」度数が高めな人間だと言えるかもしれない。

2019/12/05

昨日、「なんか、私のこと怖がってますよね?」と言われた。「いや、そんなことないです。普通です」と返した。別に怖がってはいない。ちょっと厄介だな、とは思っている。自分の視線や仕草や表情から、何の意思や感情も読み取られたくはない、という気持ちだった。事実、その人に対して僕は何の意思も感情もないわけだから。僕が何を考えているのかを詮索することはやめていただきたいと思った。(僕は自分では人を避けているつもりはなく、ただ控えめなだけだと評価していたけど、実際はそれなりに人を避けて暮らしているのかもしれない。)

青少年の唄

少年ははつらつとしている
口から ことば
体の うごき
それらすべてが率直で
隠すべきものなにひとつなく
全身がひとつの心のよう
瞳は好奇心に燃えていて
じっとしていることができない

青年は黙りこくっている
ひとつ 彼が黙るたび
ひとつ ひそかに心を燃やす
それは誰にも気づかれない
ひそかに彼は燃えている
ひとり静かに燃えていて
いつか全身をひとつの心にするときまで
それは誰にも気づかれない

2019/12/04

「真実の自分」と「混沌」の狭間で

「自分が考えていること・感じていることはこうかもしれない、いや、ああかもしれない」とひたすら迷っているうちに、僕は、ほとんど何の意思表示も感情表現もできなくなってしまう。だから黙ってしまうし、無表情になるし、何の行動も起こせなくなるのだ。すると、他人が求めている会話のリズムや即決即断に応えることができず、ただ、そういう自分が人前に出ていることを恥じるだけになってしまう。

「自分の考えていること・感じていること」に固執するのをやめてしまって、「他人が期待していること」「その場が盛り上がること」を重視して話したり、表情を作ったり、演技したりすることは、一つの好ましいやり方だろう。そしてこれは、ほとんどの人が(意識的であれ無意識的であれ、上手であれ下手であれ)やっていることでもある。

でも僕は、そういうことをできる限りしたくないのだ。そういうことをするくらいなら、誰とも会わない方がマシだと思ってしまうくらいである。なぜなら、演技をすると寂しいからだ。また、演技をすると真実の自分というものが少しずつ埋没して、最後なくなってしまうと思うからだ。なくなってしまえば、もう二度と、真実の自分を自分の中から引きずり出して他人と接することができなくなるだろう。それは、なんだか、恐ろしいことであると僕は思う。

しかし、僕が「自分の考えていること・感じていること」に固執してこうもうまくいかない理由もだいたい分かっている。それは、実は、僕は「本当のところ」では、何も考えていないし、何も感じていないからだろう。つまり、さっき書いた「真実の自分」といったものは、埋没するしない以前に、そもそも存在しないのかもしれないということである。

それは「人間の持つ混沌さ(自分と他人)」で書いていることとも関係している。人間は確かにいろんなことを考え、いろんなことを感じもするが、それはどれも断片的で、統一性がないのである。それを僕は「あらゆるキャラクターを自分の中に住まわせながら、あらゆるキャラクターが次々に『個人』を乗っ取っていく状態」と表現し、さらにそこから、人間の中にあるのは「混沌」である、としている。秩序ある、「真実の自分」とも言うべき、「本当のキャラクター」といったものは、どんなに探しても見つけることができないのだ。

しかし、ここで僕は「ああ、そうか、僕は本当には何も考えていないし、何も感じてもいない」と諦めることはできない。諦めてしまうと、僕は自らの力で何も決められなくなってしまうだろうからだ。「今日何をするか」から「将来何をしたいか」までの、すべての自分自身に関する決定を、自分ではなく、社会や他人(親、上司、教師、もしかしたら宗教)などに従って行わなければいけなくなってしまうだろうからだ。それは自由ではない。「自由とは何か?」という問題もまた難しいが、少なくとも、もっと自由なやり方があるように僕には思えるのだ。(つづく、と思う。)

2019/12/01

宇宙的孤独・異邦人

考えれば考えるほど分からなくなるということの、怖さ。「僕はどうしたいのか・どうすればいいのか」や「僕は今いったい何を感じている・考えているのか」といったことは、考えれば考えるほど、分からない。理想は、考えれば考えるほど「考えがまとまっていく(収束していく)」ことなのに、実際は、考えれば考えるほど「考えが散っていって(拡散していって)」しまうのである。

つまり、僕はひたすら「○○だけ守っていればお前は確実に幸せになれるよ」と言うところの「○○」を求めているだけなのに、その「○○」に近づくことが全然できそうにないのである。「○○主義者」になりたい。しかし、僕にはどんな主義も似合わないらしい。だから僕はいったい何を信じてこれから先を生きていけば、考えていけばよいのか、全く分からなくて途方に暮れているのだ。

一番怖いのは、自分の気持ちすら、真正面からは理解できないということだ。強がっている、「人のため」とか言いつつ本当はどこまでも「自分のため」である、嫉妬しているがそれを隠している、コンプレックスからの反動、同情を求めている、などなど。人は、自分で「そうだ」と認めたくない自分の気持ちに対して、とことん盲目的であるものだ。すると、自分の気持ちですら、なにも確かなものはないという気がしてくるのだ。

つまり僕(たち?)は、僕(たち)自身を含む世界のすべてから、裏切られているようなものである。誰のことも、何のことも、そして自分のことも、理解することはできない。人間は「混沌だけ」に投げ込まれた、ちっぽけな意識のようなもの。すべてのものから切り離されていて、誰とも何とも自分自身とも結びつくことのできない、寂しい悲しい存在。宇宙的孤独。異邦人。

いつか、誰か一人だけでもいいから、その人のことなら僕はちゃんと知っているし、その人も僕のことをちゃんと知っているという確かな関係がほしい。とりあえずそれを(仮の)人生の目標とした!(果たして、僕の中に、誰かに知ってもらうに足る何かが入っているのだろうか? 空っぽなんじゃあないの……。その反動で、空っぽであるということの反動で、こんなにたくさんの文章を書いているだけ、という可能性だってあるのだ。)

2019/11/30

「自分」を自分の中に閉じ込める

人は、自分の中にあるものを外に出してしまわないと、「耐えられない」とか「寂しい」とか感じてしまう生き物なのだと思う。「自分の中にあるもの」とは、主に感情、次いで思考とか、そういう「心の動き」のことである。だから、それが報われなかったとしても好きな人には「好き!」と言いたいし、怒ったときにはその怒りを相手にぶつけなければ気がすまないのだ。それらを抑えることは、現象としてはおそらく「孤独に耐える」ことと同じである。

「心の動き」を自分の中に閉じ込めたまま、思ってもないことを言ったり、楽しくないのに楽しいふりをしたり、あるいは一人きりで部屋に閉じこもったりしている人が、この世にどれだけの数いるのだろうか。「心の動き」を自分の中に閉じ込めることは、ほとんど「自分」を自分の中に閉じ込めることと同じである。閉じ込められた「自分」は、他の誰ともつながりを持っていない、孤独な人間であるに違いない。

僕はというと、このブログに、そしてこのブログを読んでいる人たち(かなり少ないだろうが)にいくらか助けられているから、なんとかやってけてるんだけど。

(ツイッターは手軽に自分の言葉を発信できるんだけど、別の問題も生じてしまう。ツイッターやってるやつらはまったくでたらめばかり言いやがるんだからネ! ツイッター上で正直者でいるのはとても難しいのだ。ツイッターは恐ろしい。そしてツイッターはあんなにたくさん人がいるように見えて、本当は「誰もいないのだ」ということを僕は知っている。ツイッター社に騙されないように。)

2019/11/29

くら〜い気持ちになると、まるでそれが僕の常日頃の性質だと思われかねない勢いでくら〜い文章を書いてしまうけど、よくよく考えてみると実はそうではなくて、直前にあった些細な出来事にショックを受け、それを頭の中で拡大解釈して勝手に悲観してみせているだけ!ということが、それなりにある。気をつけたい。(そうではなくて、血反吐を吐く勢いで、本当に気が滅入っているときもある。)

2019/11/28

そろそろ自分の性質に嫌気がさしてきた。なんで人と会う、人がいるところに行くだけで、神経を張り詰めなきゃならんのだ。神経が張り詰まった状態を想像するだけでうんざりする。人と会う、人がいるところに行くことが億劫。息を止めているような息苦しさがある。

2019/11/27

僕の、他人に対する反応のほとんどは「遠慮」で、それは「何もしない、言わない。向こうから投げかけられたら最小限で返す」という感じである。そしてごくまれに「反抗」。これは、嫌なことをされて、しかもその人との関わりを絶てないときの最終手段である。

「遠慮」ごくまれに「反抗」で成り立っている僕の人間関係はつらいので、だいたい一人きりでいるほうがマシということになる。どうにかならないものか。(それで自分から動きだすと決まって痛い目を見る。)

2019/11/26

ハードボイルドと「本当の心」

どんなに心から(「本当の心」から)泣きたくても、「これは嘘泣きになるかもしれない」という葛藤があるとき、絶対に泣いてはいけない。ひたすら耐えなければいけない。耐えれるところまで耐えて、どうしても涙が出てしまっても、涙は最小限に抑えなければいけない。しかも「涙をこらえる演技をしてしまってはいないか?」という疑惑が頭をかすめつつ、である。

自分の中にある「同情を求める気持ち」と徹底的に戦わなければいけないのだ。だから多くの場合、僕たちは黙って平気な顔をする。心を石にする。感情を表に出さなくなる。あるいは感情に反して明るくふるまったり、愛想よくしたりする。

そうすることでしか「本当の心」は守られないのだ。純粋さは保たれないのだ。「真実の愛」「真実の善意」といったものは、そういった忍耐や葛藤に裏付けられる。耐えれば耐えるほど、信じられるに値する人間になる。そして来るべきときにしっかりと他人と親密になることができるのだ。(『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』はそういう小説だったのではないかと理解している。)
たとえ僕がどんなことをしようとも、父親は僕に対して怒る資格どころか、不機嫌になる資格すらないと、僕は思う。だからといってどんなことでも好き勝手やってやろうというわけではないし、父親の気持ちを一切無視するというわけではまったくないということは、ちゃんと書いておく。つまり僕の行動は、僕の良心と公平さにのみ委ねられてるということだ。

父親が少しでも不機嫌になると、僕は動揺して、どんなに自分に非があったとしても反抗してしまう。そしてかつての父親が僕(や姉)に対して行った仕打ち(それも当時の厳しい家庭だったら普通のことなのかもしれないし、僕が決定的に不真面目な子どもだったという可能性もあるから、どこまで非難できるかは決めかねる仕打ち)について父親に思い出させて、それに対する怒りと憎しみを洗いざらいぶちまけてやろうか、という衝動にかられる。すると父親はそれを察して不機嫌になることをやめる。父親は、かつての自分に対する僕の感情を、僕の口から聞かされることを恐れているのだと思う。

僕の中にある「かつての父親に対する怒り・憎しみ」は、僕が成長して自分の頭でものを考えることができるようなってから「やっぱり不当だったんだ」と気づき芽生えた感情だが、しかしそのときにはもう「かつての父親」はいない。だから「かつての父親に対する怒り・憎しみ」は「行き場のない怒り・憎しみ」となって心の中にしまっておかなければならない。自分の中にある強い感情を自分のものだけにしておかなければならないのは辛く、かなりの忍耐を必要とする。(それは良い感情であれ悪い感情であれ共通していること。)

現在の父親は、かつての父親との違いに拍子抜けするくらい僕(や姉)に対して優しく、なんなら甘いことさえある。(負い目を感じているのかもしれない?) 僕の怠惰と「無軌道さ」を許してくれるし、生活や将来に対して十分な支援もしてくれる。客観的に見れば素晴らしい親だろうし、僕もそう思う。感謝もしている。

でもだからこそ僕は「かつての父親」と「現在の父親」との間で、いつも感情の板挟みのようなものをくらっていて、それにひたすら耐えていて、耐えるだけで精一杯だから僕はふだん父親に対して自分の感情をひたすら隠している。その代わりどうしても耐えられないときは(その是非に関わらず)爆発してしまう。感情を爆発させた僕に対してぶつかってはこないし、すると僕が強行的に相手を黙らせたような形になるから、後から僕は本当に悲しい気持ちになってしまうのだ。

母親に対する感情も(父親ほどではないけれど)似たようなものだ。僕が両親に抱いている複雑な感情(単に怒り・憎しみをぶつければいいってもんではなく、単に感謝すればいいってもんでもない複雑さ)を思うと、どうやっても分かり合うことはできないような気がしてしまう。僕は両親に反抗することもあれば遠慮することもあるが、そのどちらも「親密な関係」からはほど遠い反応である。

2019/11/25

彼らのおびえ

こころの深くに
おびえ
冷たい金属のしんどう
彼らは ただ
暖炉を探しているのであって
柔らかく暖かいものに
隠れたいだけであって
それが分からなくて
おびえ
わめき 怒鳴り散らす
彼らはおびえていることを知らない

おびえ
冷たい金属のしんどう
独裁者も
犯罪者も ただ
宇宙の流れに戻りたいのであって
自然とふたたび
出会いたいだけであって
それが分からなくて
おびえ
わめき 傷つける
彼らはおびえていることを知らない

おびえ
冷たい金属のしんどう
彼らは いつも
大きな壁を前にひざを震わせている
冷たく堅い
威圧的な

ただ恐怖するのみ

2019/11/24

「生きる」とは…

人間はごはんを食べないと死んでしまう。ごはんを食べるためには(狩りをする時代でもないから)お金を稼げなければいけない。

「人間は」と書いたが、これは人間(個人)でなくても同じことで、もう少しスケールを大きくしても成り立つ。「家庭は」お金を稼がなければいけない。「会社は」お金を稼がなければいけない。「国家は」お金を稼がなければいけない。

国家がお金を稼ぐためには、他国に車を売らなきゃいけなくて、そのためにはたくさんの電気が必要で、だから原子力発電所が必要である!といった具合に、お金を稼ぐための営みは膨らんでいく。

国家がお金を稼ごうとしないとどうなるか(車を作らなくなるとどうなるか)というと、お金をたくさん稼ごうとする国(例えばアメリカ)にたくさんのお金を持っていかれて、国家全体がますます貧しくなる。

お金を稼ぐことは、つねに競争することである。国家による、互いの資産を増やすための争い。戦闘機だって必要だから作られるわけではなく、お金が動くから作られるわけである。

そして、われわれ人間(個人)は、国家に属している。それは義務教育を受けなければいけないだとか、法律を守らなければいけないことからも明らかである。

国家がお金を稼がなければいけないということは、われわれ人間(個人)がそのための「社会貢献」をしなければいけないということである。便利な車を作ることは売れる車を作ることで、これすなわち「社会貢献」なのである。

義務教育も「子どもの純粋な知的好奇心を満たす」ためにあるわけではなく、国家の金稼ぎのために(将来、より便利な車を作らせるために)あるのだ、といってちょっと言い過ぎかもしれないが、あながち間違ってはいないはずだ。

受験勉強がすさまじい競争であることの説明もつく。お金を稼ぐことは、つねに競争することである。それはお金を稼ぐための人間(個人)の、そして国家の争いなのだ、といってちょっと言い過ぎかもしれないが、あながち間違ってはいないはずだ。

そう考えていくと、学歴なんてものは、社会的地位なんてものは、国家が国家の金稼ぎを有利に進めるために作った社会的な価値(ある種の幻想)であって、個人的な価値でない、といってちょっと言い過ぎかもしれないが、あながち間違ってはいないはずだ。

2019/11/23

「スーパーマンにでもなろうかなあ。ん? いや、待てよ。そうか、スーパーマンになるか!」くらいのびのびした思考で生きていきたい。僕にはそういう大胆さが圧倒的に足りていない。(意識して生活してみよう。)

2019/11/22

https://web.archive.org/web/20151120072620/http://mbti-reflection.club/111infp001.php
なんだこれ! すごい…。ものすごく詳しくINFP型の特徴が書かれている。読んでいると「すごい、まさに僕だ!」と思うんだけど、なんでこんなにも自分のことを言い当てられているのか、不思議に思う。僕が「ザ・INFP型」を無意識のうちに模倣しているという可能性もある。

2019/11/21

『ヘッド博士の世界塔』の中古が新宿のディスクユニオンに950円とかで売ってあって、びっくりしてもちろん買って、ここ数日よく聴いてるんだけど音が楽しくて、本当にとにかく聴いてるだけで楽しい。音が楽しい。歌詞はほんとうとか嘘とか言ってるな、ということくらいしかまだ見てないけど、あとGod Only Knowsがサンプリングされているのはすぐ分かった。(最近ビーチボーイズも少し聴いているので。)

好奇心のおもむくまま! リスト

僕が本当に「好き!」と言えるのは andymori くらいのものである。悲しいね…(そうでもない?)あとは、少なからず「頑張って」読んだり聴いたりしている。



好奇心のおもむくまま! リスト(いま興味を持っているものたち。多すぎて全然追いついてないよ。)

・ビートルズ(現在5〜8枚目のアルバムを攻めています。「ビートルズが好き!」だなんてとてもじゃないが言えない。けど、とてもじゃない。あと解散した後のジョン・レノンも最近少し聴いてる。)
・ビーチボーイズ(ビートルズもそうだけど、「良い」ものは聴かなきゃ!と思う。半分お勉強です。)
・小沢健二(『うさぎ!』長らく借りています。すみません。読みます。個人的に尊敬している人がオザケンに強く影響を受けているため。)
・尾崎豊(「3O(スリー・オー)」とは? 小山田壮平・小沢健二・尾崎豊のことです。僕も頭文字Oが良かったなあ、切実に。)
・村上春樹(しかし「村上春樹が好き!」とかはあまり言わないほうが賢明か。隠れハルキストを目指そう。でも僕は村上春樹をけっこう尊敬している。)
・大江健三郎(『万延元年のフットボール』がすごく面白かったのだ! 密と鷹、かなり好き!)
・三島由紀夫(大江健三郎もそうだが、政治的であることも含めてものすごく興味ある。脳みそ激しそうで、すごく興味ある。)
・夏目漱石(これも教養だよなあ。)
・サリンジャー(サリンジャーからはすごく影響を受けています。すごく。andymori と近い位置にあると思う。)
・ジョージ・オーウェル(『一九八四年』読んで満足しちゃった感はあるが、他のも読みたい。)
・『世界十大小説』の十大小説(『赤と黒』しか読んでない。『自負と偏見』は今読んでる!)
・アメリカ文学(村上春樹が翻訳したものや、村上春樹が影響を受けたものなど。柴田元幸が翻訳したものや、柴田元幸がおすすめしているものなど。)
・ロシア文学(ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフらへん?)
・ドイツ文学(カフカ、カミュ、トーマス・マンらへん?)(←カミュはフランスだった。)
・女の人が書いた日記(『アンネの日記』『二十歳の原点』『えいやっ! と飛び出すあの一瞬を愛してる』)
・詩(詩集なんか買ってもどうせ読まない。)
・映画(とりあえず早稲田松竹クラシックスの映画は欠かさず観ようと思う。)
・マンガ(マンガ〜!)
・朝永振一郎(『量子力学』が科学史も含んでいて素晴らしいみたいだが、学ぶのに時間がかかるのよね。)
・山本義隆(生で見たことある。)
・ファインマン(ファインマンは名前からしていい。文章が上手。)
・ハンナ・アーレント(一年くらい前か、『人間の条件』読み切ったの、自分でもすごいと思う。『エルサレムのアイヒマン』読みたいけど値段が高い!)
・トーマス・クーン(野家啓一『パラダイムとは何か』が本当に面白くて。)
・旅行(インド行け。)
・人間関係(がんばってください。)



書き忘れてるものもあるだろうし、これからもきっと増えていく。死ぬまでにできるだけたくさん知りたい!と思い始めると、働く暇なんてありませんわね。まったく!(欲張りなんだなあ。そのくせ、怠惰。)

2019/11/18

 短い小説を書いてみた。稚拙で、読み苦しいところあるかもしれないが、暇な人は読んでみてほしいです。なお「星」と「小山田」という名前はかなりテキトー。個人的に気に入っている名前を使っただけ。タイトルはなし。
 春になろうとしていた。三月が終わりに近づいていた。この春は、僕がこれまで迎えたどの春よりも暗い春になるに違いない、と僕は思った。新鮮さのかけらもない春。テレビや新聞、あるいは街の雰囲気から感じられる「春がきた!」という高揚感は、それと対照的で暗くて不安定な僕を、はっきりと人間社会から弾き飛ばしてしまった。
 シャワーを浴びよう、浴びなきゃ、と思った。目が覚めては夢の中に戻っていくことを、もう何度もくり返していた。目が覚めるたび、現実のすべて(生活のすべて)を思い出して尻込みする。そして頭が完全に覚醒してしまう前に、夢の中に逃げるため意識的に眠り込もうとして、目をつむる。しかし今度はそうもいかなそうだった。口の中はねばねばしているし、体は不潔で、布団の中がなんとも居心地が悪く感じられた。
 電話が鳴った。
 僕はびっくりして電話のことで頭がいっぱいになり、急いで布団から飛び出して受話器を耳にあてると、
「星、いま何してたの?」と、はきはきした女の声が言った。
「ああ……」
「寝てたのね。今からそっちに行くから、そうね、あと二十分くらい。じゃ」

 女はきっかり二十分後にやってきた。僕がドアを開けると、女はさっさと靴を脱いでそれを整えることもせず、すたすたと僕のわきをすり抜けて居間に座り込んだ。彼女の行動にはいつも躊躇がまるで感じられない。
「見て、このポスター」と言って女は、くるくる丸めた状態で腕に抱えていたポスターを床に広げた。「私たちのサークルの新入生歓迎会のポスターよ。星、あなたは新入生歓迎会には来ないの?」
「行かない」と僕は言った。「それに『私たち』のサークルではない。あのサークルは、もう、僕のサークルではない」
「ねえ、星。小山田はあの事件に関して、あなたのことをひどく中傷しているわ」と女は言った。女はどうやらこの話をするために僕の部屋に来たようだった。「星が一人で家にこもって口を閉ざしている間、小山田は自分に都合の良いやり方でみんなに事件のことを説明してまわるから、みんなは星のことを悪者だと信じ込んでいるわ」
 僕は黙っていた。
「どうして星はそれの弁解をしないの。星が、星から見た事件の真相をみんなに説明してやらない限り、まったくフェアじゃない。すべて小山田の思うつぼだわ。小山田はあなたを孤立させようとしているのよ」
「どうでもいい」
「どうでもよくないわ、星。みんなは鈍くて、それでいて小山田は巧みな話術をもっているし、あなたは家にこもっているし、それだと全然フェアじゃないのよ」
「よく分からないんだ」と僕は、女と目を合わせないまま言った。「僕はあの事件について何か説明ができるほど、自分の中でまともな整理ができていない」
「星は当事者じゃないの。あなたと小山田にはすべて分かっているでしょう。そしてこれは、あなたと小山田にしか分からないことなのよ」
「いや、残念ながら僕にはよく分からない。何がどうなってああなったのか、どんなに考えてみても、僕にはよく分からない」
「分からない、ってどういうことよ。何があったのか、前から順番に思い出してみるだけじゃない」
「ああ、黙ってくれ!」僕は怒鳴った。かなり大きな声で怒鳴ったが、女は特に驚いている様子はなく、ただ口をつぐんで黙っただけだった。僕が癇癪を起こすのを分かっていて、しかもそれを待っていたかのように。「黙ってくれ、もうどうでもいいんだ。すべてどうでもいい。小山田が下劣なやり方で僕を悪者にしようが、それをみんなが鵜呑みにしようが、これからの僕には何の関係もない。小山田は昔からそういうやつだった。頭の悪いやつらの人気者で、みんなは小山田の言うことをそのまま信じた。僕も信じた。そうすることが自然であるように小山田はうまく工夫するんだ。本当に本当に賢いやつは小山田のそういう下劣さにすぐに気がついて、小山田と小山田のまわりにいるやつらとは関わりを持たないようにしていたし、僕もずっと前からそうするべきだったんだ。でもあの事件のおかげでようやく僕も目が覚めたよ。いい機会だった」僕は堰を切ったように喋り続けた。女は黙ってそれを聞いていた。「とにかくそういうことだから、僕はもうサークルに顔を出すことはないし、新入生が入ってきて、そのほとんどが小山田の言いなりになろうがなるまいが僕には何の関係もない。小山田くらい下劣なやり方で他人をおとしめる人間を僕は見たことがないし、あいつの言うことを鵜呑みにするやつらはみんな、頭が悪くて、愚かで、くだらないやつらなんだ。僕が必死になって弁解して、再びやつらの仲間入りをする価値なんて豆粒ほどもありはしないんだよ。豆粒ほども……
「でも」と女は言った。的確だった。
「でも、そういう考えはすべて」僕はほとんど泣きだしそうだったが、同時にどこか冷静でもあった。「そういう考えはすべて、僕の嫉妬心が作りあげた、単なる妄想にすぎないのかもしれない」
 数秒間の沈黙があった。僕は少し緊張しながら、女が次に何を言うのかを待っていたが、女はやがて、
「単なる妄想にすぎないのかもしれない、ね。断定まではしないのかしら」と言った。女はじっと僕の目を見据えていた。僕の目を通して、僕の中にあるものすべてを見ているようだった。
「断定はしない」僕ははっきりとそう言った。「かもしれない、では不満か?」
「いや、そうね、それくらいがちょうどいいと思うわ。それが一番ぴったりな言い方だと、私も思うわ、星」
 そして女は立ち上がり、自分の役目を抜かりなく終え満足したかのような笑みを浮かべて、もう一度僕を見た。
「じゃ、私はもう帰ることにするわ。きっとまたお邪魔すると思うから、そのときまでさようなら」
「ああ、ありがとう」
 女は得意げに、どういたしまして、という表情をすると、部屋に入ってきたときと同じ力強さで、自分のするべきことをすべて分かっている人間の自信に満ちた態度で、玄関まで歩いていき、一度もこちらを振り向くことなく僕の部屋から去っていった。
 季節は春になろうとしていた。

2019/11/17

東工大にここ最近(といっても数年前から?)リベラル・アーツ研究教育院というものができたみたいで、それも他の多くのリベラル・アーツをしている大学院よりも理系学生に広く門戸を開いているらしいのだ。(東工大は理系の大学だからね。)そして入試科目はといえば、TOEICのスコア、予定している研究テーマの論述、面接くらいのもので、父親が言うには簡単に入れるそうなのだ。僕のための場所なんではないか?という気がしてきた。したがって、これから頑張ることは三つ。①英語の勉強、②卒業すること、③教職をとること。他のところは大いに自由にしてもらって構わないが、これだけはしっかりやらなければいけないよ、おれ! (結局、僕は親に助けられるのかもしれない。情けない。)

2019/11/15

人生の道草を食う

脱落するところまで脱落してみたいという気持ちがある。自己破滅的な人たちに対する憧れがあるのかもしれないです。不思議な憧れだ。まったくダメな人間であるか、なんかしら秀でたものを持っているかの二択であるところまで行ってみたい。危ない考え……。

とはいえ、休学くらいなんてことはありません。仮に僕みたいなタイプの人間がたくさん集まったところを想像すると、その半数以上は休学(あるいは留年)くらいするんではないかな。(この仮定は意味をなしていますか?) 休学でもなんでもして、大学生期間に思いっきり人生の道草を食って、それがあとあと「社会的に活きる」かどうかはともかく、その人本人からしたら立派な精神修行になるには違いない。(とか書きつつ、それなりに将来は不安だ。)

あと五年くらい、どちらかと言うと僕は逃げ腰であり続けると思う。社会的責任から「逃げ」の姿勢であり続けると思う。しかし二十五歳に近づくにつれて、僕は「逃げる」よりも「折り合いをつける」を選ぶことを学んでいき、社会的責任と「折り合いをつける」ことができる大人になっていくと思う。(なっていくべきだ。)

しかし、現時点で「社会的責任と折り合いをつけながらやっていこう!」と納得するには、僕はあまりにも若すぎる。まだまだたくさんものを知りたい。なにからも自由な身となって、徹底的にものを考えたい。なにも決めたくないし、なにも決められたくない! モラトリアム……モラトリアム…(呪文)。(あるいは「二十五歳くらいで僕は『折り合いをつける』大人になっていくべきだ」とすることによって、二十歳の僕は二十歳の僕なりの「折り合い」をつけているのだと解釈して、ご容赦願いたい。)

それにしても、どうして多くの人たちは深い疑問を抱くことなくふつうに大学を卒業してふつうに就職ができるのか、僕には不思議に思えて仕方がない。自分が一体なんであるか知っているのだろうか? みんなもっと古典的な(?)モラトリアム期を過ごすべきだよ! まわりの大人は急かすだろう。実際、急がないとまともな職にはありつけない悲しい世の中なのかもしれない。僕がいま足踏みしていることは、将来の僕を後悔させることになるのかもしれない。

将来のことはなにも分からない。全然大丈夫なのかもしれないし、ぎりぎり大丈夫なのかもしれない。ぎりぎりアウトなのかもしれないし、もう手遅れなほどにアウトなのかもしれない。分からなすぎて途方に暮れることがある。

2019/11/13

ところで、このまえ書いた「玉ねぎを剥いていく」という詩は、「内省」をテーマにした詩なのである。内省、まさにこのブログで主にやりたいこと。自分がいま感じること・考えることは一体なんなのだろうか?と、自分の中に深くもぐっていくさまを書きたかったのです。玉ねぎの層を剥いていくことで、その中心(本当に自分が感じること・考えること)にせまっていけるのだ、という実感を! つまり僕はこのブログに文章を書くことによって、僕の「精神的玉ねぎ」を剥いているのである。対して「物理的玉ねぎ」とはスーパーで売ってるふつうの玉ねぎのことです。(カタカナの「タマネギ」の方がよかったかなあ。それだと「精神的タマネギ」になって、なんかいい。)

2019/11/12

暴力・社会的なもの

「男女の差」の根っこの根っこの根っこは、「殴り合ったら男は女より強い」であると思う。これが逆転していたらそれ以外のことがすべて同じであっても、男女に与えられる社会的な役割だったり、一般的に言われてしまう性格の差(「男は〜だけど、女は〜だよね」みたいな言説)だったり、女性差別あるいは男性差別だったりのすべての「男女の差」が逆転していたのでないかな、とか思う。どうだろうかー?

文明が発達する前の原始時代を想像してみれば分かりやすい。それがまさに「原始の状態」であり、複雑化した現代社会もそれの延長なのであるから。



では、「白人・黒人の差」の根っこは?

それは「戦争をしたら白人は黒人より強い」であると思う。西洋でより進歩した文明が発達したのは地理的要因によるものらしい。ヨーロッパは気候条件に恵まれており、主食となる小麦がたくさんとれて飢えに困らなかったとかなんとか。地理で習ったような気がする。そういえば科学ももともとは「趣味」から始まっている。それは食べ物に困らず、労働以外のことをする時間があったからできたことだ。教育もおなじ。(そもそも西洋が「より進歩し」ているかどうかは何が決めるのだろう? 何をもって「進歩」と言えるのかという疑問。それもやはり「戦争に勝つこと」じゃないだろうか。)



「男女の差」と「白人・黒人の差」の根っこに関して、両者に共通してるのは「暴力」であろう。最初に、暴力がある。その次に「社会的(あるいは政治的?)なもの(ルール、道徳、規範、役割など)」が決まるのだ。

資本主義と社会主義のどちらが正しいかなんて、ほとんどの人はちゃんと考えていないんだろう。ただ単に「戦争をしたら資本主義は社会主義より強い」という結果があるだけだ。その結果だけを見て、ほとんどの人は「社会主義は間違っていて資本主義は正しい」と判断し、資本主義社会を疑わない。そして彼らは資本主義社会における競争(受験勉強、就活、出世競争など)に敗れた人間に対して「努力が足りなかったからだ」と言い、個人の責任にしてしまうのだ。しかし「自己責任」がどこにあるのか、僕にはさっぱり分からない。(念のため断っておくけど、僕はもちろんコミュニストではない。)

そういった社会の決める「正しさ」って、単に「暴力」が違う形となって現れたにすぎないのではないかと思うことがある。そうではない「正しさ」、人間性に深く根ざした「正しさ」はないものだろうか? 社会性は人間性のほんの一部にすぎないはずである。

2019/11/11

僕は学生運動を「巨大な反抗期」だとは思わない。(じゃあなんなんだ?)

2019/11/10

一人きりから始めること

例えばとある人間関係がこじれたとして、言いたいことは山ほどあるが、もうどう努力してもなんにもならなそうで、そうなったら黙ってそこから離れていくしかないし、それはもうそういうものだ、そういう忍耐は人生でつきものなのだ、と思うことがある。

「おおいに黙っていよう」と心に決める。それは自分がどれほどの公平さを持っているのか判断できないためであるし、また自分まで同じ土俵に立って一緒にみっともなくなる必要はないと思うからでもある。そのときにはもう自分でも手に負えない複雑な感情になっているのだ。強がっているのか、なんなのか?

そして「一人きりになるべきときなのだ」と思う。でもそれは「ずっと」ではない。「一時的に」一人きりになるべきときなのだ。



僕たちはいつでも一人きりの状態から始めることができるよう、強くなっておかなければならない。それまでの人間関係がすべて無になったとして、イチから新しくやっていくような覚悟を、心のどこかで持っていなければならない。

それは「一人きりで生きていく強さを持たなければ」ではない。「いつでも一人きりから始めることができる強さを持たなければ」である。この二つはまったく違う。

2019/11/09

どんな他人も自分である

文章を書くときはなぜか、どんなに頑張っても自分に都合の良いことしか書くことができないもので、自分に都合の良いことなら嘘もつけるし、自分に都合の悪いことなら本当のことでも隠してしまう。

①客観的であることにはずるいところがあって、自分は外から世界を見ているだけだよと言って、自らを当事者でなくしてしまう。そうではなくて、例えば「偏見」や「悪」について述べるのであれば、述べる人が自らの思考回路から自らの「偏見」や「悪」をえぐりだしてきて、それをまず言葉にしなければいけない。それができないのであれば、なにも言うな、である。

②人は平気で(無意識のうちに)自らの記憶を、自らがヒーロー(ヒロイン)であるように捏造する。



本当に深い深い内省があれば、誰も誰かを責めることはできない。人間はみんな似たような思考回路をたどるものだ。他人のそれがみっともないからといっても、よくよく考えてみれば、すべて自分も知らぬ間にやっていることだ。他人の観察ばかりしていないでちゃんと自分の中にもぐっていけば、どんな他人も自分であるということが痛いほど分かる。(殺人者でも、独裁者でも、独裁者を支持する群衆でもね。)『アイ・アム・ザ・ウォルラス』の冒頭にもあるように、僕らはみんな「おんなじ」である。本当に。

2019/11/05

なぜ今の僕が今みたいな感じなのか、どこでそうなっていったのだろう?と思うと、ものすごく不思議な気持ちがする。きっと、いくつかの転機があって、それらが伏線となって、相互に絡み合って、現在の自分が形成されているのだと思う。おかげでさまで僕は、ある方面ではわりと進んでいる、しかしある方面ではかなり遅れているといった、ちぐはぐな性質を持っているのではないかと思う。そしてそれが結構おかしくて、自分に対する変な愛着すら沸いてくるのであった。成長が期待されています。

2019/11/03

玉ねぎを剥いていく

玉ねぎを剥いていく
この世のすべての感情をそこに見る
視界は消えさり
大きな海を見渡すこびと

玉ねぎを剥いていく
あらゆる表層に惑わされないこと
「見たり見えたりする一切有は
夢の夢にすぎませぬか」

玉ねぎを剥いていく
中心には宇宙があるのか(ないのか)
光が見える
ますます内側に引きこもって

玉ねぎを剥いていく
のも
ほどほどに!

心がまえの分類

①一人きりでいるとき → もっとも自由、気楽、安全。
②人と居合わせているとき → 視線、姿勢に気をつけなければいけない。涼しい顔をしていればよい。なにか考えているフリをしていればよい。一人きりでいる「てい」でふるまえばよい。
③人と話しているとき → 精一杯やる。

2019/11/01

男の人はみんな、多かれ少なかれおびえているのではないか?(だとしたら、一体なににおびえているんだろう?)おびえていて、それでふさぎこむ人もいれば、攻撃的になる人もいる。男の「子」だと、そんなことはない。

母親が「母親的なもの」ではなくなるにつれて(「男の子」が「男の人」になるにつれて)、生きているだけでどっか混乱していて恐怖を感じるようになるのかもしれない。今日『サクリファイス』という映画を見て、それから自分のことについても考えてみて、そして身のまわりにいる自分以外の男の人についても考えてみて、なんかそう思ったのである。

『ノスタルジア』もそうだったが、かなり宗教的な映画だった。マリアうんぬん。(そして僕にはちょっと退屈な映画だった。睡眠不足でもあった。)

女の人のことは分からない。(「男は〜」「女は〜」という文章はあまり使わない方が賢明だとは分かっているのだが。)

2019/10/31

他人に自分の嫌なところを見いだす

憧れ・嫌悪

『僕が白人だったら』という曲は、その題名や歌詞から「白人」に対する憧れが描かれているのだが、終盤の「毎週末には教会へ行くすべて クリーニングしてくるクリーニング」という部分は大きな皮肉で、それは『バグダッドのボディーカウント』のサビ「God Bless America」の皮肉と同じものがある。



白人ではない人たちに白人に対する憧れを抱かせたものは、白人が大きな力を持って作りあげてきた社会の価値判断(好き嫌い)である。白人ではない人たちも、白人が作り上げた白人優先の価値判断に少なからず影響を受けてしまうのだ。それに気づいたとき、白人ではない人たちは、白人に対する「憧れ」と同時に「嫌悪」も持たなければいけなくなる。矛盾した感情を持たなければいけなくなる。

これは白人うんぬんに限らない。自分ではないものに対する「憧れ」は、それをコントロールして自分を肯定するために正当な理由を探しだしてくるものだが、多くの場合その「正当な理由」は「他人あるいは社会に対する批判・嫌悪」という形をとる。学校に対する批判、会社に対する批判うんぬん。

人はときどき、自分にとって唯一存在である「自分」を肯定するためならどんな歪んだ考え方だって受け入れるし、どんな過激なことだってやるものだ。それが「自分以外のすべてを否定することで、ただ自分ひとりを肯定する」というやり方であっても。そうでなかったらマーク・チャップマンはジョン・レノンを殺す必要なんてないし、かつてのドイツ人がヒトラーに従ってユダヤ人を迫害することもなかっただろう。どんなときもまず「個人的な感情」がある。そしてその後に理屈がついてくるのだ。「個人的な感情」以外のなにものも、最初にその人を動かすことはしない。



「個人的な感情」に根差した批判・嫌悪はすべて排除しなければいけないなんてことは当然ない。

しかし僕たちは、必ずその「個人的な感情」にどこまでも自覚的でなければいけない。そしてその矛盾した感情のなかで賢くバランスをとる必要があるのだ。たえず自問自答することができる者でなければ、なにも言うことはできない。自問自答はときどき本当に辛いものがあるんだけれど。(『万延元年のフットボール』の鷹にはその自問自答が足りない。あるいは、しらふで(正気で)自問自答することができないくらい深い傷を負っているのだ、とも言える。対して密はその自問自答に精神を疲弊させて、なにも「期待」することができないままでいる。)



こういうことが前提にあるから、最近の僕はなにかを考えはじめても、いつも最後には「なにもわからない」という気持ちになるのだ。どこまで「個人的な感情」を許していいものか? 「正しさ」はどこからやってくるのか?

2019/10/30

社会性のなさ

打ちっぱなしゴルフ練習場で、夜八時から九時半までのらくなバイトをしている。普段は火曜と木曜が僕の担当なんだけど、用事があると友だちに代わってもらったり、逆に友だちの担当の日を僕が代わりにやったりする。そしてこの前の土曜日(土浦の花火大会の日だ)も、友だちの代わりに僕がゴルフ練習場に行かなければならない日なのであった。

しかし僕はそのことをすっかり忘れていて、無断欠勤してしまった。



僕は人並み以上に誠実に生きているつもりである。でもそんなことは今どうでもよくて、中高を思い出してみると僕はよく遅刻をしたし、提出物も出さなかったし、忘れ物をしたし、テスト勉強も付け焼き刃であった。僕は怠惰かつ注意力散漫なところがある。

しかしそれだけならたいして問題はない。(大いに問題ありだという意見もあるけど。)一番の僕の問題点は、そういう自分の怠惰や注意力散漫を恥じてしまうということにある。しかもそれが精神的にかなりこたえるのだ。

恥じてしまうといっても、怠惰や注意力散漫による失態それ自体を恥じているわけではなくて、それによって人に迷惑をかけて信頼を失うとか、だらしないやつだと思われるとか、怒られるとかいった、失態のあとに待ち構えている対人コミュニケーション(?)のもろもろを恐怖しているといったほうが正しい。

つまり怖い大人が死ぬほど怖いのである。(二ヶ月くらい前か、一人で車で千葉に出かけたとき、停めちゃいけないところに車を停めてしまって、お店でゆっくりと本を読んでいたところ「黄色い車の持ち主はいねえか」とのりこんできたお兄さんにかなり恐怖した。本当にびっくりしてしまって、その日はもう一日じゅう気が滅入ってしまった。ところで、僕の「怖い大人が死ぬほど怖い」の原体験は父親である。また、人を怒るドッキリとかを平気でやっているテレビ番組や、それを楽しく見てる人たちの神経を疑う。)

僕にとってこれは本当に本当に大きな問題で、だから失態があると「逃げる」を選択してしまいがちである。すぐにちゃんと謝れば最小限で済むものを、(血を吐く思いで)ずるずると逃げまわって、もう逃げられないというところまで逃げてしまいがちである。おびえと惨めさを感じて。犯罪者が逃げまわっているのと似たような気持ちなのではないかな。(犯罪者のそれの方が苦しいとは思うけど。)

この前の土曜日に関しても、無断欠勤してしまったことに気づいた翌日(日曜日)にすぐ電話をして謝るのがベストであることは分かっていたし、そのつもりでもいたのだけれど、いざ電話をしようというときになると気が重く、結局しないまま次の火曜日(バイトに行く日)を迎えてしまった。最悪な気分でゴルフ練習場に向かった。

これまで、たまにある失態を除けばまあまあ真面目に働いてもいるし、僕はちゃらちゃらした感じでもないからなのか、ちゃんと謝ったら拍子抜けするくらいあっさりと許しを得た。きっと日曜日に電話をしていればすぐに許してもらえて、惨めな気持ちで逃げまわっているような憂鬱な三日間を過ごさなくて済んだのだろう。(ところで、そういう惨めな気持ちでどうしようもなくなって夜に車を走らせを書いたのが昨日のこと。)



こんな感じでまともに社会で働けるのだろうか、と不安になります。

2019/10/29

ふたつの本当

言葉はうそをつくので、ある感情をもみ消してあるべき感情をでっちあげたりする。それがずっと嫌で嫌で仕方がなかったのだが、最近は感情とはそのように積み重なっていくものなのだと納得している。「ある」だけが本当なのではなく「あるべき」もおなじように本当であると思いたい、といった具合に。言葉はうそをつくが、うそをつくにいたるのにもやはり理由があって、それは本当なのである。僕たちは言葉を通して、本当がそこにあることを、それがなにかはわからなくとも、理解するのだ。神話はウソであると言う人がいるが、なにもないまっさらなところから、物語ができたとは考えられない。そこに物語があるということは、そこになにかが、それはわからなくとも、あるということだ。皮膚を境界面にして、その内側にある本当のなにか。外側に本当があることは、科学やその他の学問がうそをつくことによって、理解できる。皮膚を境にふたつは分けられるが、どちらも大きさはおなじに違いない。ふたつの本当の重さは等しいに違いない。皮膚をひっくり返したら、内側にある宇宙は無限遠まであふれ出て、外側にある宇宙はきれいに皮膚に閉じ込められるだろう。そして好奇心だけが、ふたつの世界を旅することができるのだ。

ドライブ・マイ・カー

ドライブ・マイ・カー
夜道を走る
少女のダイヤモンドに誘われて
街から月へ
ひとからひとりへ

路上には五匹の動物がいて
首輪をした犬
怪我した競走馬
檻に入れられた虎
ネコとうさぎは友だち関係
鈴を鳴らして笑いあう

ドライブ・マイ・カー
少女にさよなら
心は体が思いついた夢で
静かなエンジンも
唸りもくしゃみも

空には五機の乗り物があって
カラフル熱気球
ジャンボ飛行機
無人の人工衛星
有人の人工衛星
それから
ユー・
エフ・
オー!(きょうれつな光)

ドライブ・マイ・カー
少女によろしく
どれも僕には関係のないことがらだ
他人のエス・オー・エスも
自分のそれも

2019/10/28

「偽善」は良いものか、それとも悪いものか?という問題を長らく考えている。
それから、「善」と「偽善」の違いはあるのか、もしあるのであればそれはなにか?も。

2019/10/27

中村一義の『主題歌』と、小沢健二の『戦場のボーイズ・ライフ』。聴くと元気が出る、元気が出るぞ!

2019/10/26

本・「良い」もの・知的好奇心

カミュの『異邦人』、かなり薄くてささっと読めそうやんと思って読み始めるのに、まいど挫折している。もう四回くらい途中で読むのをやめている。(うち一回は第一部の終わりまで読んだのにね。)なんか主人公がゆらゆらしている。頭の中であれこれ考えてはいるんだけど、魂がまるでないような感じ。印象には残っていて、ちゃんと読みたいなあと思っているんだけどいざ読むとあんまり進まない。

・・・

僕は、基本的に「良い本」を読もうと心がけている。「好き」より「良い」である。理由の一つ目、自分がどんな本が好きなのかすら僕には分からない。二つ目、「良い」ものに触れなくてはいけない!という僕の強い思想。(思想ありました。これは本に限らない。)

特に僕はまだ二十歳であるから、僕はこれこれが好きだ!と決めてしまって読書の範囲を狭めてしまうのはあまりよろしくないことだろうと考えたのだ。だから、幅広く「良い」ものに触れていこうぜ、という方針で本を選んでいる。なじみのあるものよりも知らないもの、自分にとって新しいものに触れていきたい。かつ「良い」ものである。したがって「良い本」を幅広く、である。

「良い本」を読もうの信条の一つとして「ある作家の本を読もうと思ったら、一冊目はできるだけその作家の代表作を読む」というものがある。今、大江健三郎の小説を初めて読んでいる。あれこれ迷った末に結局『万延元年のフットボール』を読んでいる。僕がいま興味を持っているテーマに従って、『万延元年のフットボール』ではない、他の作品を読もうかとも考えたが、そんなことより最も優れているとされている本を(それがどんなテーマであれ)読んでみるべきだと思ったのだ。自分の好き嫌いよりも、社会的評価を優先する。普段の僕の考え方と矛盾しているように思われるかもしれないが。

とはいえ、読むことが楽しくないとそもそも読書ははかどらないから、楽しい!と思った本を見つけたらその周辺にあるような他の本を探したりも当然している。例えば村上春樹の小説を読んで面白かったら、村上春樹が翻訳している小説を読んだり村上春樹と同時代のアメリカ文学を読んだり、といった具合。

・・・

「『良い』ものに触れたい」というのは「精神的に立派になりたい」という「意識の高さ」からくるのか?というと、そういう部分もあるにはあるが、主な理由はそれではない。

一番の理由は知的好奇心を満たすことである。世界を超えて時代を超えて「良い」とされているものには、それ相応の「秘密」があるように僕は思うのだ。限られた人たちだけが理解している・知っているような、空間と時間を超えて成立する「秘密」。それは「良い」ものに触れた瞬間すぐに理解できるようなものではないだろう。

しかし、例えば数日後や数ヶ月後あるいは数年後に、ふとすべてがつながるような、「秘密」を(言葉ではなく)心の底で理解することができるような、知的好奇心が満たされる幸せな一瞬が訪れる。ふと、理解する。そして宇宙的・時間的な広がりについて思いをはせる。そういう瞬間のための伏線として、「良い」ものに触れておくことは大きな役割を果たすのだと僕は思っている。

インドに行きたい!とずーっと思っているのも、まったく同じ理由によるものなのだ!(勇気と行動力を僕に! たくさん旅行することを口実に部活辞めたのに、ほとんどどこにも行ってないのだよね。)

2019/10/24

つぶやくことないのにむりやりツイートしなくていいし、書くことないのにむりやりブログを書く必要なんかないのだ。そういうことをするからウソをつかなきゃいけなくなる、自分をごまかさなきゃいけなくなるのだ!

でも、なんでもいいからなにか書くのだということだけが先に決まっていて、書く内容は後からでっちあげるというのもわりに正しい道のりなのかもしれない。というか、それって普通じゃないか? 僕は一体全体なににこだわっているのか…?

(例えば、この文章で僕はまったくウソをつかなかったと胸を張って言える自信がない。それまでなにも感じてなかったくせに、ブログに書くためだけにむりやり感情を引っ張りだしてはいないだろうか? そういうのってどこか間違っているように僕は思うのである。

とはいえ、この括弧書きにより僕はいくぶん正直者でいることができる。ごまかしの後に「ごまかしたかもしれません」という白状を加えれば、つまり「すべて」を書けば、書き手はそれなりに正直者でいることができるのだ。)

2019/10/23

大きな理屈

透明になりたいものだ。黙っていよう! 好きなものもなければ思想もない。それでいてたしかな行動原理をもつこと。あらゆる選択は、自分でも説明のつかないような、背後に隠された「大きな理屈」にのっとって行われるのである。(行動原理:行動の根源的な動機となる本能・欲求・願望・信条・価値観など。)

ときどき激しいことを考えはするが、口にはしない。口にしたあと心変わりして「もうどうだっていいや」と思ったところで後には引けなくなると困るからだ。自分の考えていることはどういう歪んだ道筋から来ているのか?と想像すると、もうなにも分からなくなる。すべてはコンプレックスから来ているという可能性だってあるのだ。きわめて個人的な問題を克服するためだけに、自分以外の人や社会に対する評価まで歪めることだってあるのだ。気をつけろ。大いなる「分からなさ」!

みんな精一杯に生きているのだと思う。なるようにしかなっていない。誰も自分の人生を自分でコントロールできる人間なんていないのではないか。自分の思考を自分でコントロールできる人間なんていないのではないか。自分の感情を自分でコントロールできる人間なんていないのではないか。

2019/10/21

渋谷に

 N先輩とH先輩で飲むことが決まったらしく、それじゃあ人が足りないというんでH先輩が自分の彼女を連れてくる、と。それでもつまらんからお前も来い!と言われて、平日の夜わざわざ渋谷に。
 先輩ふたりと僕の三人で飲むとかだったら(給料日前のお金がないときに)わざわざ東京まで行かなかっただろうが、H先輩が彼女を連れてくるというんでそれは気になる…と思って、ほとんどそのためだけに行った。どっかでナンパして仲良くなったのだとか聞いていた。

 居酒屋に入る。就活の話をしたり、恋愛の話をしたり。(就活と恋愛。このふたつがわれわれ大学生の主要なテーマなのである!)
 もっとも、僕は就活についても恋愛についても話すべきことが何もない。話すべきことが何もないのは僕が「こんなん」だからである。
 年下でよかったな〜と思った。同い年とこういう話をするとなるときっと置いてけぼりにされて、そしてなんか居心地が悪くなる。僕だけ年下であると、そこらへんが「おくれている」ことに関して引け目を感じたり、無駄に見栄をはったりしなくて済むからよい。そしてみんな優しいから僕の将来を一緒に考えてくれるのだ…!

 人と話をすると知らない世界が垣間見える。四年も付き合っている恋人がいる人の見えている世界なんて分からないし(N先輩の話だ)、女の子を駅でナンパして始まる恋愛とかなんてまったく想像もつかない。
 僕が一人でうだうだしている間に(それも立派なひとつの世界である、文句は言わせないぞ)他の人は他のことをして他の世界を築いているのである。いろんな世界があるなあ、と本当にしみじみする。
 結婚の話も出たくらいだ。結婚…。僕からしたら結婚なんてめちゃくちゃ遠いところに思えて仕方がないが!

 いろんな人から「お前、もったいないぞ」という忠告(?)を受けている。今日もそうだった。つまり恋愛をしろと。そんなこと言ったってどうすればいいかわからんやん!と思います。なるようになるしかないではないか…。は〜い。(まず人のいるところに行くべきなのだ。)

2019/10/20

分からないことを分かってないんじゃないのか?

くわしく話す前から僕がどういう人間であるかを決めてかかってくることはどうかやめてほしい。話始めからもう偏見にまみれているのだ。僕の発した言葉やツイートから言葉じりだけをつかんで、「そういうのは(自分も考えたことあるけど)どうなんすかね」と言わんばかりの顔で食ってかかってくるのだ。自分の考えた理屈と相手の考えた理屈とでは、例え同じ言葉を使っていようとも、同じものさしの上にあるわけでは決してない。ちゃんと話を聞こうぜ、と思うよ。(ブーメランになっていないかものすごく心配だ。)



でもまあ、人がどういう人間であるかなんて、自分の中にある理屈から判断するしかないんで仕方ないとも思います。

・フラットな見方なんてどこにも存在せず、人は偏見でしか物事を見ることができない。
・「思い込む」以外のやり方で「思う」ことはできない。
・完全な客観なんてものはなく、あるのは解釈だけだ。
・「そうであってほしい(あるべき)」と「そうである」に境界はない。
・「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない。」

これらをいかなるときも忘れてはならない。痛いほど肝に銘じよう。自分の考えたことを信じてはならない。(分からないことを分かってないんじゃないのか?)



そして、他人と分かりあえる日はいつかくるのか(あるいはその必要はないのか)?

2019/10/16

小山田壮平バンドのライブを見に行った。写真はそのときのもの。よかったです。

躁と鬱

元気なとき楽しい気分のときは、なんだかよくわからないけどとにかく「好き!」と思う。「誰を」でも「何を」でもなく、全体的に圧倒的に「好き!」という感じ。強いていうなら「世界を」! もはや誰のことも何のことも好きになれそうな勢い、良いことも悪いことも含めたすべてを愛せそうな勢いである。しかもそれが永遠に続くような気さえしてしまう。躁。

気が滅入ってるときはすべてその逆である。鬱。



でも最近はそんなに上がり下がりが激しいわけではない。鬱のときでもそこまで人のことが嫌いになったりはしない。

一人になりたいとは思う。そして「死にたい」とか「死んだほうがましだ」とか試しに心のなかで言ってみて、「いや、そういうのは良くないぞ」と返す。

不必要に自分を卑下したり、ネガティブになってみたりするのは一体なんなんだろう? 心の中なら誰にもばれないと思って、隠れてむちゃくちゃなことを言ってみたがるのである。試験的に暗い気持ちになっていこうとする心理状態(好奇心からか?)。「いや、そういうのは良くないぞ」。暗い気持ちになるときは、過不足なく。

2019/10/14

広告と教養

(ビジネス界隈におられる方々のような)極端なこと、過激なこと、賢そうなことを喋ったりやったりして注目を集める輩が僕は好きではない。彼らの言ってることの理屈がおかしいとか言うつもりはない。役に立つ部分もひょっとしたらあるのかもしれない。しかし彼らがしていることはすべて単なる「広告」である。不必要に力強い言葉やスローガンも、宇宙にロケットを飛ばすことも、SNSでの発信も、交友関係も、彼ら自身に関することのなにもかもが単なる広告にすぎない。そこに中身はない。多くの人はその広告に煽られ、踊らされ、お金を支払う。あるいは自らがくだらない「広告」になり下がって、お金を人から巻き上げる。そこで行われていることは「広告があって、お金が動く」、ただそれだけのことである。そしてその間に、本当に大切なものが次々と失われていくのだ。

では、広告ではない「中身」とはなんなのか。その答えは簡単ではない。それがわかれば誰も苦労しないだろう。「教養です」と言うことができるかもしれないが、教養ですらもときどきくだらない「広告」として扱われることがある。つまり「教養が大切だよね」とか言って、たくさんの本を読みました、あれもこれも知ってます、とかでは全然ダメなのだ。これは(必ずしも「お金を稼ぐため」ではないにせよ)やはり単なる「広告」にすぎない。

本当の意味での「教養」とはなんだろうか。僕は「考えること」と「感じること」であると思う。しかし「考えた(あるいは感じた)という事実」であってはいけない。実際に「考える(感じる)こと」それ自体でなくてはいけない。かなり抽象的な答えかもしれないが、「教養」とは、それ以上具体的に述べることができない類のものだと思う。

そして、考えたり感じたりするためには「体験」が不可欠である。およそ考えられるあらゆる体験(人付き合いをするとか、本を読むとか、旅行するとか、その他なんでも)が考える(感じる)ことの役に立つ。もし体験が尽きれば、それ以上考えたり感じたりすることもできなくなってしまうだろう。新しいことを考える(感じる)ためには、新しい体験が必要なのである。

「体験すること」と「考える(感じる)こと」の相互作用によって、人間は「良い」方向に向かっていくことができるのだと思う。たぶんそういった営みが「幸福(快楽?)を追求すること」に繋がっているのではないかと僕は考えている(ちょっと飛躍した)。
人と仲良くなりたいと思ったところで、なにかをするにはリスクが大きすぎる。

2019/10/12

変わる!

という予感。
自分のなかで、ふつふつとなにかが沸騰しているような感覚。
今ならできる!(なにが?)
知的好奇心とドーパミンの区別がつかない。
期待感とはこれのことだ。
!!!新しい!!!

今そんな感じである。



今日のダイジェスト → お昼に起きて自己嫌悪。オザケンの新曲『彗星』を聴いて宇宙に思いをはせ、物理がんばろう!と強く思う。大学で宗教学の授業を受けてみるもピンとこない。台風に備えて買い物。帰って量子力学の教科書を開き勉強してみたらめっちゃ楽しくて感動。バイトの面接に行ったら長(おさ)が優しそうな人で、しかも即採用。(かくして旅行資金を工面できそう! タイ、インド、沖縄、中国に行きたいなあ。)帰って再び量子力学。人とラインする、など。いきなり友達に電話をかけて弾き語りを聴いてもらう(新しい試み)。ブログを書く ← 今! これから → 部屋の片付けをする。風呂入る。寝る。



遠くへ行きたい。

今いる場所から逃げたい…という後ろ向きな気持ちによってではなく、知らないことを知りたい!という外向きな気持ちによって(えいやっ! と飛び出す)。旅行をしたい、本を読みたい。ただ好奇心にのみ従って、空間的にかつ精神的に、遠くへ遠くへと移動するのだ。



ときは満ちたな。(『ヒバリのこころ』を聴きながら。
しかし「僕ら」という部分が今の僕には気にくわない!)

2019/10/10

すごいものを

見た! 衝撃的だった。あまりの衝撃に心臓がとまるかと思った。軽いトラウマになるかとも。僕はそれを見間違えじゃなくて本当に見たのだ。なにを見たのかというと、なんと、映画を見た(観た)のである!(まるでUFOを見たかのような騒ぎかただけど、映画を観てそれくらい仰天してしまったのである。「なるほど、僕は映画を知らなかったのだ」と思った。ちなみにUFOも見ました。)

観た映画は『ジョーズ』と『未知との遭遇』である。早稲田松竹(高田馬場にある名画座)にて、スティーブン・スピルバーグ監督特集なるものが行われているらしいのを今朝ホームページで発見し、軽い気持ちで足を運んでみたのである。それがまさかそこまで衝撃を受けることになるなんていざ知らず。(なんか慣れない文体で書いてますよね。そもそも日記みたいな文章をふだん書かないから下手くそなんです。大目に見てほしいです。)

一本目の『ジョーズ』を観たあと、軽い放心状態になりながら「なるほど、これが映画なのか…」と深く合点した。僕はこれまで映画を観て感動することがあっても、たいてい心のどこかで「まあそんなもんか(僕の感性は…)」と思ったものである。しかし今回は違った。「これが映画だったのか。僕はこれまで本当の意味で映画を観たことがなかったのかもしれない」とすら思った。それくらい強烈な映画体験。

『ジョーズ』のあらずじはというと、島にサメがきて人々大騒ぎ、それを退治すべく署長やらサメの専門家やらが大奮闘するとかそんな感じである。これだけ聞くと実にたいしたことなさそう。そう、ストーリーはたいしたことないのである。『ジョーズ』は、サメがめちゃくちゃ怖いよ!という映画なのだ。「いうてスクリーンの中でサメが人を襲うだけのなにが怖いねん」とか思おてましたら大間違い。サメはでかい効果音と悲鳴とともに突如スクリーンに現れるのだが、われわれはそれを心臓をドキドキさせておとなしく待ってなきゃいけないのである。つまり演出が怖いのだ。サメが怖いんじゃなかった。演出だった。あの音楽と効果音と悲鳴さえあれば、ひょっこりはんがひょっこりする映画でもほっこりしないりっぱなホラー映画ができあがると思う。

二本目の『未知との遭遇』も面白かった。これがSF映画の名作である!ということをしみじみしながら観た。そういう意味では「学び」に近かったと思う。良いものを観ているのだ、これが名作なのだ、あらゆるSF映画の基礎となっている作品なのだと思いながら観ると、これからさき映画というものをより楽しめるような気がした。名作は(良いものは)ただ面白いというだけでなく、僕たちの知的好奇心を満たし世界を広げてくれる役割も同時に担っていると思う。

映画、いいかもしれない!

2019/10/09

から回りの理想主義

おそらく他の人から見ればとことんくだらないこだわりを、僕はたくさん持っていると思う。それが良い結果をもたらすこともあれば、自分を苦しめることもある。

自分自身のことに関して、僕は誰にどのように説得されようと自分の決定を変えない。自分の心が惹かれない限り、どんなに偉い人や成功者の言ったことにも耳を貸すことはない。そういうところ僕はとことん頑固である。(その代わり自分以外の事柄に関してはわりと無頓着。)僕は僕自身が用意した規範にのみ従いたいと思っている。みんながやってるから自分もというわけにはいかないらしい。

とことん効率の悪い価値観で生きているということは重々承知していて、こういうのは社会でやっていきにくいということも分かっている(たぶん会社に入った途端すぐさま問題児扱いされるだろう)。多くの人は僕に対して「なんだかよく分からない」とか「自分の考えに固執していて柔軟性がない」とか思って近づいてこないだろう。

「から回りの理想主義」という言葉を最近発見して、まさにこれだなあと思った。夢想家。野心がなければ、お金にも興味がない。芸術に入れ込むには哲学的すぎる。要するに、もう、なんでもない。偶然だけで生きていくしかない人間であるような気がしてくる。きっと「信頼のおける雑用」みたいな職業が一番向いている。(『ムーン・パレス』という小説が面白かった。物語の最初、大学生である主人公が堕落していく様子が今の自分の堕落した大学生活と重なってるように思えて、妙に納得したり感動したりした。)

大学を卒業したら東京に住むと思う。そうじゃなければ沖縄に。それ以外のことはまったく分からない。



最近強く思ったこと:人生を良いものにしようとして、人生に対して能動的に働きかけを行うことが僕には向いていない、できない。

2019/10/08

抽象的なもの・ことへ

僕がなにを「専門」としているのかというのはすごく難しくて、ほとんどなにも「専門」にはしていないと言っていい。ここでの「専門」というのは学問的な意味あいではなく、「好きなこと、頑張っていること」くらいの意味、より正確に書けば「それを好きである、頑張っていると公言できること」くらいの意味である。アイデンティティ的なものに関わってくる類いの「好き」や「頑張っている」である。

中高の頃は、僕にも「専門」らしきものがちゃんとあった。自分を知らない人に手っ取り早く自己紹介するためには「走ることが好きです。陸上競技を頑張っています」とか言えばよかった。たぶん僕のことを知っている人も、そのほとんどが僕を「陸上競技」とともに記憶していたのではないかと思う。それくらい本気で陸上競技に打ち込んでいたのである。

でも、今は違う。自信を持って自分について語るべきことはほとんどなにもない。走るのが得意(だった)、ギターも少し弾ける、音楽を聴く、本も読む、物理学類である、でも最近は文系分野のほうが興味がある。しかしどれもすべて中途半端で、どれにも打ち込むつもりが僕にはない。僕にふさわしいキーワード(中高の僕にとっての「陸上競技」)みたいなものはなにもない。だから好きなことや頑張っていることはなんですか?と聞かれても答えに窮する。強いて言うなら考えることが好きだし頑張ってもいるが、いわゆる哲学をやっているわけでは全然ない。つまり、一見すると僕はなにも好きではないしなにも頑張ってはいないのである。一見すると。

しかし、好きなことや頑張っていることはある。間違いなくある。それを簡単に言葉にするのは難しいというだけ、具体的な単語で示すことはできないというだけで、なにかしら好きだしなにかしら頑張っている。そしてそれがしっかりと僕を僕たらしめている(アイデンティティ的なものとして機能している)と強く信じている。(強く信じられないときは、どうしようもなく不安になったり混乱したりしてしまうわけだが。)では、僕は一体なにが好きでなにを頑張っているのだろうか?

具体的な単語で示すことができないのは、具体的なものを好きなわけでも具体的なことを頑張っているわけでもないからだろう。つまり僕が好きなもの・頑張っていることは、抽象的なもの・ことなのではないか。音楽を聴いたり本を読んだりその他もろもろのことを、僕は誇ることなんてできない程度にしか好きではないし頑張ってもいないが、しかしその過程でなんらかの抽象的な「なにか」に向かっているという意識が僕にはある。だってそうでなかったら自分がばらばらになってしまうだろう。自分の価値観とか好き嫌いといったものが!

そして僕は、それが抽象的であればあるほど正しいと(ひそかに)信じている。僕を僕たらしめてくれるものは具体的なものであるべきではないはずだと。さらに言えば、人間を人間たらしめているものは具体的なものであるべきではないはずだと。それが「本当のこと」とかいうやつなんだとすれば、その「本当のこと」とやらを探し求めることが、おそらく僕がこのブログでやりたいことなのである。(本当のことをいおうか!)具体的な単語ではなく、抽象的な文章(専門用語では、「遠心的な文章」)。

このブログが、僕自身の真実を見つけるためにやっている個人的な探求の場であると同時に、(僕が僕の中に深く降りていくことで逆説的に)僕以外の人間にも通ずる普遍的なもの(ヒューマニズム?)に近づくことのできる場でもあればいいなと思う。だから僕の考えることが、他の誰かが考えるさいの助けになれればとてもうれしい。

2019/10/06

とてもいい!

とてもいい! という名前にふさわしいふるまい、ふさわしい人間を演じることにした。とてもいい! という言葉の持つ大きさ・軽快さ・速さをつねに意識したい。犬は吠えるがグロリアス軽トラは進むのである。分からなくなったら、とてもいい! 方へ。混乱したときはいったん落ち着いて、必ずここに戻ってくること!

http://www5a.biglobe.ne.jp/~nanatsu/TOCT-8183.htm
https://www.cdjournal.com/main/cdjpush/andymori/1000000401

下書き(最後まで書けなかった文章ふたつ)

 なにが分からないかも分からないというのは、混乱しているということ。そういうときはうまく言葉が出てこない。話した途端、どれも真実ではないような気がしてくる。自分をごまかしてるのではないか、そして相手にそれを見透かされているのではないかと不安になる。うまく言葉にできないから、誰にも分かってはもらえない。一人きりだ。

………

 家にいること、一人きりであること、それがスタート地点である。
 僕が一年以上も前からずっと望んでいることは、ただ自分の中にある期待感と好奇心のおもむくままに、自分のいる地点から(物理的にも精神的にも)遠くへ遠くへと向かっていくことである。まず街へ、それから世界へ、という具合に。そして人と会うこと。
 しかし遠くへ行けるのは天才だけであるらしく、そして僕は明らかに天才ではないから、期待感と好奇心のおもむくままどこまでも遠くへ、というふうにはいかないようだ。だから僕は今でもたいてい家にいるし、だいたい一人きりである。ほとんどスタート地点から進んでいないみたいである。
 遠くへ行きたいのにその力がないとき、何らかの檻に閉じ込められているような気持ちになる。檻が具体的に何なのかははっきりと分からない。それは家だと思うこともあれば、つくばだと思ったり、自分自身(が作り上げた精神的な制約?)だと思うこともある。何もできることがないからおとなしくじっとしていて、何かが変わるのを受動的に待つしかないと思えてくる。閉塞感。

2019/10/05

 ブログを改造することに目覚め、見やすくなるようにデザインしたり便利な機能を追加したりするうちに、とあるホームページのデザインとそっくりになってしまいました。(似せるつもりはなかったのだが、あれこれいじっているうちに勝手に似てしまった。オリジナリティを出そうと試みたが、そうするとなぜかこの状態よりもごちゃごちゃしてしまう。)すみません。
 それから、どうやらスマホだと明朝体ではなくゴシック体になってしまうらしい。(それともAndroidだけか?)ふだんスマホでこのブログを見るという方は、ぜひ一度PCかタブレットで見てみてください。ふんいきが違って見えるかもしれないです。(それだけですが。)



 それにしても、このブログは非常に進化しました……。

2019/10/02

最後の場所

 「悲劇のヒーロー演じてんじゃねえよ」とか「変人ぶって奇をてらったこと言ってんじゃねえよ」とか「難しいこと考えてるふりして自分に酔ってるだけだろう」といった批判は、この世の数ある批判の中で最も言われたくない種類の批判である。というか僕は、その手の批判を浴びたくないという一心でこれまでたくさん考え、絶えず発言と行動を省みてきたのだ。その努力が実を結んでいるのかどうかは分からないけど。(そういう批判をされたことがあるわけではない。自意識が過剰とはそういうことである。)

 一切演じることなく、ふりをすることなく、自分に酔うことなく、ありのまま正直にふるまうことができる大人はごくごく少数しかいない。対して子どもは誰でもそれを自然に行なっている。
 しかしどんな子どもも思春期を迎えるにつれて、多かれ少なかれ自分自身を俯瞰して(客観的に)見ることができるようになる。すると、「他人からどう見られるか」や「社会的理想に適っているか」が身の振り方を決定するようになり、やがて正直さや無垢さは完全に失われてしまう。それはほとんどの場合誰にも避けることはできない、悲しいことに。

 正直さや無垢さが完全に失われてしまったあとに残るものは、ある種の「広告」だけである。どうすれば自分を「売り出す」ことができるかを(意識的であれ無意識的であれ)考え、自分自身を作り込むはめになる。ちょっときつい言い方だけど、本当にそんな感じなのだ。(そしてそれは全然悪いことではない。)作られたインテリ、作られた変人、作られた純粋さ、作られた趣味、…。あとはそれをどれだけ作り込むかだけが勝負になってしまう。(異論は認めます。)そして僕自身その戦いに否応なく参加させられている身なのだ。
 特に大学生は悲しくて、高校生よりも自由度が高いからそれだけ他人と比べられることが多い。どんな服装をするかとか、大学生活でなにを頑張るかとか、SNS上(ツイッターとかインスタグラムとか)での投稿はどうするかとか、何から何まで自由に自分自身で決めなければいけない。それらはすべて他者から(あるいは自分を俯瞰して見ている自分から)評価され、評価は鋭く突き刺さる。「自由」は一見素晴らしい言葉のように思えるが、本当の意味で自由を表現できるのは(たぶん)子どもだけである。

 そういうことを真面目に考えだすと、人前に現れることやSNSの投稿など、人目に触れるすべての活動を投げ出して一人で家にこもりたくもなる。あるいは、自分のことを知ってる人が一人もいない街で一からやり直したいという気持ちになる。遠くに行きたいみたいなこと。つまり「逃げる」である。
 しかし、逃げた先に待っているのは孤独である。逃げるは孤独。立ち向かって心をすり減らすくらいなら、孤独でもいいから逃げた方がまし。そんな感じで僕はことあるごとに逃げまくっています。(よくないことだ。)一ヶ月前にツイートもやめたから、ついにブログでしかものを言えなくなってしまった。(家と)ブログは安全地帯。ここは最後の場所である。僕に好意を持ってくれている人だけが見に来てほしいです。

求めること・遠慮すること

 夏休みが終わり大学の授業が再開した。教室では相変わらず身の置き所がいまいち定まらないままだけど、朝ちゃんと起きて一限目の授業にしっかり間に合って真面目に板書もして……大変よくできました。
 授業が再開したことは非常に残念な出来事ですが、だからといって気分が落ち込んでいるというわけではなく、むしろここにきてようやく「なにかができそう…!」という前向きな気持ちがふつふつと沸いてきている(これとか)。小さな火ですが、消えてしまわないように頑張っていきたいです。



 求めること、それも適切な相手に適切なやり方で。そうすればそれに応えてくれる人がいるのである。素晴らしいことだと思います。これが「なにかができそう…!」という気持ち、期待感(=元気)。
 この「適切な相手に適切なやり方で求める」ができさえすれば、人生華やかだろうと僕は思うのです。

 しかし問題は「適切な」というのが恐ろしく難しいということにある。「適切な」が分からず、間違った相手または間違ったやり方で求めてそれが拒否されると傷つく。場合によっては他人が怖くなって家にこもりがちになったりもする。(そしてたいていの場合、外から働きかけがない限りそのままずっと沈み続けることになる。)



 求めても拒否されるかもしれないという恐怖感があると人は遠慮する。遠慮することが体に染みついてしまうと、求めるべきときに求めることができなくなる。すると相手は求められていないと感じるため、相手も遠慮する。
 遠慮と遠慮がぶつかると悲惨だ。起こるべきことも起こらなくなってしまう。(恋愛の話をしているのではなく、すべての人間関係に共通していること。)

 だから(人生華やかにしたければ)遠慮し続けることはできない。ちゃんと求めなければいけない。しかし、適切な相手に適切なやり方で。
 これは、間違った相手または間違ったやり方で求めて、拒否され、傷つき、求めることに恐怖したのち、それでもその恐怖感を乗り越えて再び誰かに求めることを始める……そのくり返しによってのみ学ぶことができるのだろう。
 それは辛い道のりだから、華やかな人生を諦めてしまいたくなる気持ちも痛いほど分かる。家にこもり連絡を絶ち求めることをやめれば、誰にも干渉されず自分が傷つくことも相手を傷つけることもない、一人きりの安全な生活を送ることができる。
 しかし求めることを諦めたあとで待ち受けているのは、辛く孤独な人生である。ほとんどの人はそれに耐えることができないはずだ。



 求めることを諦めないこと、わりと大事だと思います。(と同時に、間違った相手または間違ったやり方で求める人に対してもできるだけ寛容でありたいものです。)

2019/09/23

 昨日書いた文章、いくつか改行を加えたり書きかえたりしたので、多少読みやすくなってます。読んでほしい〜!



 また、書きながらかつて読んだことのあるこの文章を思い出した。(僕の文章ではありません。)分かりやすくて面白くて大事な文章だと思うので、ぜひ。

2019/09/22

人間のもつ混沌さ(自分と他人)

 ものを考えるためには、まず、分けなければいけない。分けて、名前をつけなければいけない。
 だから「自分」というものについて考えるためには(あるいは「人間」について考えるためには)、それをいくつかのキャラクターに分けてそれらに名前をつけてから考える必要があるだろう。

 すると、ひとりの人間の中には、およそ考えられないほど無数のキャラクターがあることが分かる。善や悪、惰性、偽善と偽悪、穏やかさ、過激さ、人間らしさ、あとは純粋さとか、性欲とか、それから「何だかよく分からないもの」。
 場合によっては、大人と子ども、というふうに大きく二つのキャラクターに分けて、自分のことを考えることもできるだろう。

 それぞれのキャラクターは、それぞれ全く異なった考え方をしている。ひとつひとつ個性が豊かで、主張が激しい。みんながみんな、自らの欲求を満たすために隙あらば「個人」を乗っ取ってやろうと企んでいる。
 「個人」とは、それらのキャラクターを俯瞰して見ている自分、つまり「僕」のことである。「僕」は考えるし文章も書くから、そいつに「理性」とかいう名前をつけて(つまりキャラクター化して)今後、扱ってみてもいいかもしれない。
 だから今の僕は、「理性」が「個人」を乗っ取って文章を書いているということになる。(話が分かりにくくなってきた。)




 こういったあらゆるキャラクターを自分の中に住まわせながら、あらゆるキャラクターが次々に「個人」を乗っ取っていく状態でもなお、統一感のある「自分」というものを他人に提供するのはほとんど不可能だと僕には思える。

 例えば、始めに僕が「優しさ」のキャラクターで人と関わりを持ったら、その人は僕を「優しさ」とともに記憶するだろう。
 しかし「優しさ」は僕の持つキャラクターのひとつに過ぎない。だから僕はその人の前で「優しさ」を演じ続けることはできない。(疲れるからだ。)長く関わるためには、他のキャラクターも受け入れてもらわなければならない。

 しかし他人は、特定のキャラクターを自分に期待してそれと反対のキャラクターを嫌うかもしれない。もし相手が他のキャラクターを受け入れてくれるような人であっても、こちらからはそれは分からないし、多分キャラクターを出してみなければ誰にもそれは分からない。
 いざ出してみたら(もしくは、ふとしたときに出てしまったら)不快に思われて、それで関係はおしまいになるということだってある。そういうときはすぱっと関係を諦めてしまうしかない。




 他人が期待する自分と、自分の中にある無数のキャラクターとの間で板挟みになるとき、人は不安定になる。自分の思うことや考えることには一貫性がなく、自分について自分でもよく分からなくなったりもする。
 でもとにかくそれは仕方のないことだから、気まぐれだろうが混乱したままであろうが、そのまま進んでいくしかやり方はない。怖がっていても始まらないのだ。(しかし、できるだけ人を傷つけないように。)

 それと同時に、他人の見せるあらゆるキャラクターに(戸惑いつつも)嫌悪することなく、幻滅することなく、できるだけ受け入れようとし、そしてそれを積極的に楽しもうとするような寛容さも学ばなければいけない。
 相手のことを「善」であると信じたり「悪」であると決めつけたりすることに意味はないのだ。ひとりの人間が「善」であるかどうかは問題ではない。人は誰でも、善も人間らしさも悪も惰性も「何だかよく分からないもの」もなにもかも全部乗っけて、人間を(栄光の軽トラックを)やっている。
 だから、僕たちが人と接するときいつも相手にしているのは混沌なのである。そしてもちろん自分も混沌だ。混沌と混沌が意志疎通をするのである。

 もちろん他人のそれを受け入れられないときはあって、そういうときは関係を切ってしまう。逆に、相手から関係を切られてしまうことだってある。
 しかし人間関係において、そういった「方向性の違い」が起こってしまうのは本当に仕方がないことなのだ。そこをすりあわせることができないのであれば、さっきも書いたようにすぱっと関係を諦めてしまうしか方法はない。
 僕たちはそういう覚悟とともに他人と関わる必要があるのである。

2019/09/21

個人的な体験 と それを抽象化する/しないこと 1

 人の価値観、ものの見方、「考えていること」は、その人がこれまでにしてきた「体験」に影響を受けている。
 体験とは、なにかを見ること、聞くこと、人と会って話すこと、どこかに行くこと、どんな両親を持つか、生まれ育った土地、どんな学校に行ってるか、どんな生活をしているか、なんて本を読むか、なんの仕事についているか、忙しいか暇か……などといった、挙げればきりがないほどたくさんの「原因」のことだ。
 これらの原因が、その人の価値観、ものの見方、「考えていること」を決定する(原因と結果)。ひっくり返せば、それらの原因が違うから人は違う価値観を持ち、違うものの見方をし、違うことを考える。つまり「違う人」(=他人)なのである。

………

 体験から得られる感情を共有することで、人と人とは「分かり合う」ことができる。

 同じ体験をしていれば同じ感情が得られるため、人と人とが分かり合うことはそこまで難しいことではない。例えば、同じ職場で同じプロジェクトに参加している人どうしであれば、そのプロジェクトを遂行するにあたって感じる喜びや苦しみを分かり合うことができる。
 こういった体験を「集団的な体験」と呼ぶことにする。同じ集団に属している人どうしで分かり合いたければ、集団的な体験を用いればよい。

 しかし、集団的な体験に頼って人と人とが分かり合うことには、欠点や限界がある。
 まず、集団的な体験に頼った「分かり合い」は集団内部でしか適用できないため、集団に属していない人たちと集団との間に高い壁を作ってしまうということ。すると、集団の中にいる人は集団の外にいる人と分かり合う可能性を潰してしまうことになる。また、自分がなんらかの理由で集団から外れたとき、誰とも分かり合うことができなくなってしまう。
 そして、集団的な体験なんてものは人が体験することのごくごく一部にすぎないということ。人が持つ体験のほとんどは集団的な体験ではなく「個人的な体験」である。だから、個人的な体験を用いることなくして、人と人とが「深く分かり合う」ことはおそらくできない。

 したがって、個人的な体験から得られる感情を「正しく(!)抽象化する」ことによって人と分かり合うことを考えなければならない。

2019/09/18

元気がないときに人と会うのは

 元気がないときに人と会うのはものすごく大変だ。

 今日一日東京にいて結果的に複数人にお会いしたが、始めから終わりまで精神的にいっぱいいっぱいで、話し方、仕草、表情すべてがぎこちなかった。なんとか平然とした感じを装おう(よそおおう)としたが全然ダメだったと思う。(いわんやかっこつけることをや、である。)


 人と会うときは大体緊張している。人にどう見られているか、どう思われているかを気にするから。つまり自意識があるからだ。

 緊張すると少し頭が混乱状態になって考えるスピードが落ち、すらすら言葉が出てこなくなる。だからいつも意図的にゆっくり話すことで言葉が詰まらないようにしている。また緊張すると顔がこわばるが、それを隠すためにむりやり平然とした表情や態度をつくっている。うまくいけば緊張や自意識が相手に見透かされずにすむ。
 (度が過ぎると、とっつきにくく、なに考えてるかわかんない、無表情で冷たいといった印象を相手に与えることになるかもしれない。緊張していても愛想良くにっこり笑ったりできればそれが一番いいのかもしれないが、今のところ僕にはそれができない。訓練が必要なのかも。)

 しかし元気がないときは自分の緊張や自意識を隠す余裕がなくなってしまう。だから平然とした表情や態度をキープすることができなくなり、喋りや動きのすべてがぎこちなくなる。そして顔がこわばる。ゆっくり話をしても追いつかないくらいに頭が混乱しているので、言葉を詰まらせてなにが言いたいのか分からんと思われることもしばしばだ。

 今日はそういう日だった。しっかりと落ち込んでいる。


 去年の秋から今年の一月くらいにかけて、僕はまともに人と会ってコミニケーションをとることをせず基本的にずっと一人きりでいた。その間も寂しさはつのる一方だったからかなり元気がなくなっており、このままではやばい、なんとかして人に会わなきゃと思って、今年の二月に東京上野にある夜学バーというところに足を運んだ。
 その当時(二月から三月にかけて)は気が滅入りすぎていたので、カウンターに座って人と向かい合うだけでいっぱいいっぱいだった。ひどいときは基本的にずっと黙っていて、話しかけられたときだけごく簡単な受け答えをする程度のコミニケーションしかできていなかったと思う。

 今日はその当時の自分を少し思い出すほどの気の滅入りようだったのだ。そのときほどしどろもどろではなかったにせよ、終始気持ちが安らぐことはなく、かなり神経をすり減らす一日となった。


 それでも今日はラッキーな偶然があり、ちゃんと家を出て東京に来て良かったとはかろうじて思う。元気さえあればもっと良い一日になったような気はするが。

2019/09/13

意味〜

 一度考え始めたことは、とりあえずどんなことでもちゃんと考えてみることにしている。試験的に。「仮に…」から始めて。そうやってたくさんの可能性だけを頭にストックしておく。
 そういう姿勢は、なにかを信じることとは反対にあるのかもしれない。なにかを信じることは、それについて都合の悪い部分に対して盲目的になることだ。都合の良い部分だけしか見ないことだ。それに対し疑うことは、すべてを見てから物事を決断しようとする姿勢である。
 だけどすべてを見尽くすことはできないし、見尽くしたとしてもどれか一つを選ぶための基準があるわけでもない。いろんな可能性だけが頭に残って物知りにはなるかもしれないが、結局のところなにも決められないままになる。なにも決められなければなにも言うことはない。
 だから、自分の考えたことや感じたこと、良い(もしくは悪い)と思ったことがあまり信じられなくなっていて、だから今の僕はたいした意見も思想もない状態である。なにかに批判的になることはこれから減っていくと思うし、なにかを嫌悪することもなくなっていくだろう、多分。

  andymoriの「トワイライトシティー」という曲の歌詞に「別に悲しくない 消えていくわけじゃない 流動するだけだ」「あらゆることに 深い意味はない」とある。
 やまない雨はないが、晴れていてもいつかは雨が降る。人類が天候を操ることはできないのと同じように、人は物事が変化することにほとんど手出しできない。雨が降るも晴れるも黙って受け入れるしかない。
 われわれは、大きなもの、大きな流れの中にいて、なんの意味もない世界をただあるがまま流されるしかないのもかも。かも、だけど。(遺伝子だか輪廻だか分からんけど。)

 ふてくされているわけでは全然ない。いえ〜い、物事を楽しむつもりはあるし、人と仲良くしたいとも思っている。美味しい物は食べたいし、音楽も聴く。最近は働くことにも興味がある。自炊も頑張りたいし、大学もしっかり卒業するつもりだ。
 しかしそれらの原動力は期待感や希望ではない。大きいところでは物事を諦めながら、小さいところで自分のよく分からないこだわり(的なもの)に従って行うこと(行いたいと思っていること)である。諦めつつも自暴自棄にはならないようにするための自前の行動原理みたいなものを作り上げていきたい。

 意味、あるのかもしれないですね。僕にはまだよく分からないけど、それなりにちゃんとはしようと思う。大学を卒業するまでに、社会に出てちゃんと働いてお金をもらって生活することへの準備をしようと思う。昨日は野菜と肉炒めてめんつゆでパスタ作ったし、一昨日は水っぽい焼きそばを作った。その前はサンドイッチ作ったりカレー作ったりもした。

2019/09/12

9月の目標

 ツイッターをやらなくなってライン以外のSNSをひとつもしなくなると(たまにタイムライン眺めたりはするんだけど)、ついにこのブログのみが、僕が今どうしているか、どんな感じか、なにを考えているかを外に伝えるほとんど唯一のものになっている。
 しかも最近はちょっと家にこもりがちで、つくばに帰省中の友達一人を除けばほとんど誰とも会っていない。


 僕はなんやかんや大学生になってから孤立しやすい人間になってしまって、加えてもともとだらしなくて怠惰だから、一日誰とも会わず散らかった部屋で不規則な生活を送る、みたいな日が増えた。そんな日は自分がまともな人間じゃないような気がして、社会からドロップアウトしたような感覚になってしまう。それは結構辛い。
 孤立しやすい人間であること自体はそこまで悪くない。しかし誰とも会わない日があっても自分がまともな人間であるという感覚はほしい。だから規則正しい生活、部屋をきれいに保つこと、自炊……といった、まともな人間にありがちなまともな生活を手に入れようぜ、というのが今月の目標である。
 ということで、つくばに帰省中の友達(ふだんは京都で一人暮らし)に手伝ってもらって、部屋の片付けから簡単な料理まで、生活のしかたをざっと教えてもらった。(部屋の片付け教わるって、なんやねん。)さらに一日のざっくりとした予定表も作成してもらった。以下の通り。

6:00 起床
6:10~7:10 ジョギング
7:15~7:30 シャワー
7:40~8:00 料理
8:00~8:15 朝食
8:20~8:30 洗い物・お米のセット
8:30~9:00 準備(家の片付けはここで済ませる)
9:00~12:00 何か
12:00~12:40 料理
12:45~13:20 昼食
13:25~13:40 洗い物
14:00~17:00 何か
17:00~18:00 休憩(買い物もここ)(洗濯もあるならこの辺かな)
18:00~19:00 料理(多めに作って翌日の朝に回せるとよい)
19:00~19:30 夕食(一緒にプリキュアを見ると良い)
19:30~20:00 洗い物
20:00~21:00 何か(液晶を見る系のはなるべくここで済ませるとよい)
21:00~21:20 シャワー
21:30~21:40 片付け
22:00 就寝


 頻繁に会える友達は、いるとよい。恋人がいればさらに素晴らしい。しかしそういったつながりが一切ない時期も当然ある。一人きりの時期。それはものすごく充実してるとは言えなくとも、まともな生活があればそれなりに充実させることはできるはずだ。

 生活を小さな心の支えの一つにできれば今月の目標は達成!(ところで、「22:00 就寝」はさすがに早すぎないか?)

2019/09/04

パターナリズム

 できるだけ親と、まあまあ建設的に(?)、仲良くやっていこうとしていたんだけど、昨日今日でやっぱり分かり合えそうにないことを思い知らされて、どうしようもなくて、家で一人で腕時計を床に叩き壊したり発泡スチロールを粉砕したりしてしまった。普段なら絶対にそんなことしないんだけど、もうどうすればいいか分からなくてどうしようもなかった。
 親とは(特に父親)どんなに言葉を尽くして自分の思うことや考えていることを説明しても意味がないと分かったとき、ぐっと堪えて黙るしかない。それは、おれがだいぶ変わった考えを持っているからかもしれないけど、それはおれにはどうしようもない。もちろん親にもどうしようもない。誰にもどうしようもない。
 誰かを悪く言うことはできないし、意味がないし、関係をぐちゃぐちゃにするだけだ。だから黙るし耐えるんだけど、せめてもう話しかけないでほしい。少なくとも、心が落ち着くまでは家族の誰とも話をしたくないし、誰の顔も見たくない。
 こういうどうしようもなさ、怒りのやり場のなさ、やるせなさに昨日一人で憤って、それで物にあたってしまった。そして泣いてしまった。おれはいつかちゃんと安らぎを得ることができるのだろうか?

自意識について(再び)

 僕は、なにかを好きだとダサいとか、なにかを好きだとダサいとか言ってる奴らこそダサいとか、そういうことをたくさん喋ったり考えたりしたあげく、頭がパンクしてしまった。
 どうにかこういう煩わしさを回避できないだろうかとあれこれ考えた結果、ひとまず黙ってしまうことにした。(それが賢明かどうかはさておき…。)

 なにを好きだとか、なにを目指してるとか、どんな地位にいるかとか、どんな思想を持っているだとか、そういったことを表明することによって、空っぽな自分を“味付け”してるみたいな気分になりたくはない。あいつは空っぽな自分を“味付け”してるんだな、と思われたくもない。
 それから、なにを好きだとか、どんな思想を持っているかとかで、自分の印象を下げてしまうことがある。嫌悪を持たれることがある。実際これまで僕も、そういう理由から他者に嫌悪を持ったことがある。
 が、できる限りこれからはそういうことを一切やめにしてしまいたい。だから僕はなにも表明しないし、誰かがなにかを表明してもできるだけフラットな気持ちでいるよう、努めることにする。

………

 僕は、自分の発言によって(意図せず)他者の自意識を膨らませることがこれまでにたくさんあったのではないかな、という反省をしている。
 それと同時に、あれこれ発言することで自分の自意識も膨らんでいって(発言は評価されるわけだから)、自分をものすごく疲れさせてしまうことも分かった。
 だからこれからはたくさん黙ろうと思ったのだ。自分の思ってることや考えてることは、それほど表に出す必要はない。しかし、それでもちゃんとなにかを思ったり考えたりすることができるのであれば、という条件つきで。
 (思ってることや考えてることを表に出すことなく、なにかを思ったり考えたりするためにはそれなりの訓練が必要なのである。だからブログには書いてるわけです。でもツイッターでは黙ろうと思った。人前ではこれまでもそんなにたくさんは喋らなかったからいいんだけど。)

 自意識を抱えながら、同じように自意識を抱えてる人となにかが分かり合えればいいんだけど、その人からもどう思われるか考えなきゃいけないし、その人に対してもなにかを思ったりしてしまうから、やはり人と人とが仲良くなることは(僕にとっては)とてつもなく難しい。(こういう文章を書いてること自体が、障害になっていそう。)
 一つ一つの自分の発言やふるまいや行動に対して、それで良かったのだろうかと不安になりながら(間違っていた! と分かって、それを乗り越えながら)進んでいくしかないのだろう。
 自意識に関する煩わしいあれこれを考えることなく、気楽に人と仲良くなれたりしないもんなんだろうかと思うけど、多分それは無理なんだろう。これからもずっと自意識がなくなることはなく、ときどき自分を苦しめるはずだ。

 と、ブログではこういう気難しいこと(自意識をむき出しにしたような文章)を書くけど、実際に人と会うときはもっとスマートに(?)、クールに(?)、自意識なんか微塵も感じられないくらい平然としていたいものです。ふふん。

「大きなもの」・人は弱くてもろい

 人は誰でも、「大きなもの(システム、社会、組織)」の前では、弱い。どんなに力の強い者も、お金持ちも、独裁者も、その人ひとりだけを取り上げれてみれば、とことん弱い。だから人は組織する。一人のままでは必ず負けてしまうからだ。

 組織するためには、それなりの形式が必要になる。名前が必要になる。旗が必要になる。ルールが必要になる。スローガンが必要になる。
 しかし、そうやってできあがった人の集まりはいずれ、とても硬直的で、画一的で、体制的で、想像力の入り込む余地のない「大きなもの」となり果てる。「大きなもの」は人間ではないが、それ自体で意志を持ち人々を従わせるようになる。
 最初は一人ひとりの意志の集まりであったものが、だんだんと「大きなもの」の意志に従う人々の集まりになっていくのだ。「大きなもの」の意志に従う人々は、空っぽで、想像力の欠落した、考えることをやめた、うつろな人間である。

 国家も「大きなもの」だし、国家を打倒するべく組織されたものもやがて「大きなもの」となってしまう。腐敗した「大きなもの」に勝つために組織した「大きなもの」もやがては腐敗するのだ。だから学生運動の結末は学生と学生の殺し合いだった。体制側はもちろん体制的だが、反体制側もりっぱに体制的なのである。
 また、一部の子どもにとって、学校は耐えがたいものである。それは、学校が「大きなもの」であり、先生が「大きなもの」の一部になることを自分に強要しているように見えるからだ。一部の先生は、考えることをやめた想像力のない人間である。彼らは子どもに対して(というより誰に対しても)不誠実である。

 人が人を傷つけるとき、殴るとき、殺すとき、傷つけられた(殴られた、殺された)人は被害者であり、傷つけた(殴った、殺した)人は加害者である。
 しかし必ず、その背後には「大きなもの」の意志がある。傷つけた人は「大きなもの」の意志に従っているだけであり、なぜ「大きなもの」の意志に従っているかと言えば、一人のままでは弱くて負けてしまうからだ。その点で、傷つけた人も実のところ被害者であり、「大きなもの」が加害者である。
 つまり、傷つけられた人と傷つけた人、ともに「大きなもの」の被害者なのである。一人の人間が悪いということはあり得ない。正確に言えば、誰も何も悪くはない。

 戦時中の兵士は敵を殺すが、それを拒否することはほとんど不可能である。「大きなもの」の意志がすなわち自分の意志だからだ。
 学校の先生一人ひとりは、文科省や親たちやその他の先生、そして子どもたちとの間で板挟みだ。一番弱い子どもに対して不誠実であっても無理はない。

 一人ひとりはみんな「大きなもの」の前ではもろく、なされるがままになる。その結果、人を傷つけようが、殴ろうが、殺そうが、彼らは何も悪くはない。ただ、愚かで、考えることをしない、想像力の欠落した人間であるというだけだ。そこでたくさん考え、想像力を働かせたとしても、「大きなもの」と人との間で板挟みになって、自分が壊れてしまうんだから仕方がない。
 人は弱くてもろい。

2019/09/01

便利屋を始めました

 便利屋を始めた。始めたと言っても、まだツイッターアカウントを作っただけで、依頼も来てないし何もしていない。これからビラをまくつもり。筑波大生を主な対象としている。これまでほとんど関わりを持ってこなかったし、積極的に関わろうともしなかった筑波大生(というか大学生)を相手に、なんとか頑張ってみようと思ったのだ。うまくいけば、筑波大学(そして、つくば)を自分にとって楽しい場所にできるかもしれない。つくばに住んでるんだから、つくばを頑張らなきゃいけない。ここ半年間、東京に頻繁に足を運んでいたのは、そのための準備期間(賢くなるための期間)だったとも言える。
 賢い。一見すると冷たく、人を緊張させもするが誰かを傷つけることは(力の及ぶ限り)しない。控えめで欲がなく、ほとんど自意識が感じられない。公私混同は、本当に必要かつ安全なときにしかやらない。今のところ、そういう感じの便利屋を目指している。
 便利屋として活動するときは、徹底的に便利屋としての顔しか見せないつもりだ。だから、これから依頼を通して関わる人の中で、僕が何を考えているのかを理解できる人はほとんどいないだろう。そういうとき、こいつ何考えてるか分かんないけどまあいいや、というパターンと、こいつが何考えてるのか気になる、というパターンの二種類の人間に出くわすだろう。前者の人たちとは縁がありませんでしたということになる。後者のように、僕が何を考えているか分からないことによって、逆に、僕に好奇心を持ってくれる人がいるとき(少ないとは思うが)、最も頭を働かせなければいけない。あくまで便利屋であるから、ほとんどすべては成り行きに任せる。
 「ロング・グッドバイ」という有名な推理小説の主人公、フィリップ・マーロウを参考にしたい。彼は私立探偵だが、個人でやっていることや依頼を受けてから仕事が始まることは便利屋と同じである。彼ほどクールな演出は必要ないが、学ぶべきところは多い。彼は、自意識や自分の欲求をどこかに置いてけぼりにして、あくまでも私立探偵、そしてあくまでも「正しさ」に忠実に行動をする。そして賢い。
 格好は、基本的には普段通り(キャップをかぶってtシャツを着てジーンズを履く)感じでやっていく。車(黄色いフィット)も必要があれば使う。その他のことは、活動しながら決めていく。